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高杉晋作 上海渡航前 1861年後半 [上海渡航前]

高杉晋作 上海渡航前 1861年後半





この年1861年(文久元年)の江戸の長州藩邸といえば、過激書生の巣窟でした。
ただ闇雲に「夷狄(いてき)斬るべし」「攘夷、攘夷」と叫ぶ状態でした。






リーダー的存在としては桂小五郎がいました。
思慮深さもあり、同士に対する親切心もあり、その点、確かに人望はありましたが
自ら時代の局面を切り開いていく創造的才能を持っておらず、兄貴分または相談役
といった存在でしかありませんでした。






水戸藩の吉田東湖、薩摩藩の西郷隆盛、土佐藩の武市半平太らと比べるとどうし
ても見劣りがするのです。
久坂玄瑞においても同様で議論の鋭さにおいては桂小五郎を凌駕するものがあり
ますが、それをどのように具体的に実行せしめていくかの決断力と思慮ににやや
欠けていたのです。






水戸も薩摩も土佐も彼らのリーダーが「こうする」と言えば後は何も考えず、ただ
忠実に実行していったのですが、長州は理論・理屈ばかりが目立ち、肝心の
計画実行という行動力において見劣りがしていました。
つまり戦略的感覚を持ったリーダーがいなかったのです。
決断のもと、自分や同士を死地に追い込んでも断固実行せしめさせるボスが必要
でした。






1年前 水戸浪士による桜田門外の変以降、水戸藩は藩内の政治的対立が激化し、
過激攘夷はすり潰されていってしまいました。






今や江戸で過激攘夷論者と言えば長州藩と言われるまでになっていました。
ただこれは長州藩の藩論ではなく、松下村塾系の書生たちが勝手に息巻いて、
他藩の攘夷活動家と会合を持ったりしていただけのことでした。
「長州は口だけだ」という批判的な見方をする攘夷活動家も出てきていました。






「晋作を江戸へ呼ぼう」・・・自分たちの総大将になってもらおう。






で、降って湧いたような藩命で晋作は江戸へ引きずり出された格好です。





高杉晋作
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この当時、玄瑞らは長州藩の藩論を「攘夷」にしようと藩の重役らと議論を重ね
ていました。





そんな折、藩主・毛利敬親(たかちか)の下命により、藩の重臣であり、政務役の
長井雅楽(ながいうた)にこの混乱の収拾策を献策させました。
「航海遠略策」がそれでした。

長井雅楽
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https://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&msa=0&outp...



どういう内容かというと、朝廷と幕府が手を結び、開国の上、貿易を盛んに行い、
西洋の文明・技術を積極的に学び、国力をつけた上で夷狄と対等に対峙し、ゆく
ゆくは五大州を日本にひれ伏させしめていこう・・・というものです。
幕末最大の論文ではありました。






初め、長井雅楽はこの策を提示することに躊躇しました。
藩内の過激書生たちの大反発が容易に予想できたからでした。
鎖国攘夷で煮えたぎった油のように沸騰している彼らにはとても理解されない
であろうことは明白です。






ですが藩主・敬親は大いに気に入り長井に京・江戸での説諭を命じました。






1861年4月から8月の間、長井は藩主の命を受け、長州藩の特命大使として京の公家、
江戸の幕閣に長州藩の藩論として説明して回るとともに、書生レベルの議論のみで
相手を服従させようという子供じみた真似はせず、公家にも幕府の要路にも十分な
金品を送りつけ、彼らの心をも掴んだのでした。
この辺は大人の振る舞いですね。さすがです。






ここ数ヶ月の長井の活躍で藩論は開国に大きく傾き掛け、公武合体論が台頭し始め
ました。





こういう時期に晋作は江戸にきたのです。






玄瑞は議論の席でこう言います。
「長井、斬るべし」
「晋作、君はどう思う?」





晋作、一言答えて言います。「斬ればいいじゃないか」





この一声で長井暗殺計画が後々玄瑞を中心に実行に移されていきます。



※あのですね、晋作は簡単に「斬ればいいじゃないか」と発言していますね。
  晋作 、こう言った瞬間、死を覚悟して言ってるんです。
  師・松陰の教えの中に「どのような小さな事でも実行には常に死の覚悟を持って
実行しなさい」というのがあり、晋作それをこともなげに言っているんですね。



※それと長井雅楽の暗殺計画ですが「航海遠略策」に対する批判もさることながら、
  師・松陰の江戸召喚と死刑に至る一連の流れに長井雅楽が一枚噛んでいるのに
 違いない、という誤解も重なって、ヒステリー状態で長井憎しの感情に拍車をかけ
ていました。
本当は松陰と長州藩を守るために松陰を野山獄に入牢させたのですが、玄瑞ら
にはそういう理解がなかったのです。






江戸で世子お小姓役として勤務を始めた晋作にヨーロッパ諸国を巡る機会がやって
きます。
幕府が遣欧使節の計画を発表し、それと知った周布政之助が晋作を長州藩代表の
一人に選んだのでした。
晋作がその内命を知らされたのが9月9日。
晋作、大喜びです。






が、しかし、幕府から、長州藩からは一人のみしか随行を認めないとの達しがあり、
9月の末に晋作は正式に随員から外されてしまいました。
晋作、超ガッカリです。
故郷の妻や家族、そして友人たち皆に欧州行きを伝えていただけにカッコ悪いこと
甚だしい。






勤務の傍ら、玄瑞らと長井襲撃の打ち合わせを重ねます。






そんな折、晋作や玄瑞らの企てに気づいた桂小五郎は彼らの秘密会合の料亭に赴き、
隣の部屋に潜んで話の内容を盗み聞きします。
予想通り長井暗殺計画でした。






藩主の名代として江戸に入説にきている長井を殺せば下手人はことごとく死罪となっ
てしまいます。





桂は麻布にある藩邸に戻り、周布政之助に報告します。
桂も周布も彼らを罪人にしたくはありません。





議論で彼らを説き伏せるのは不可能と知っていたので、周布は一計を案じます。
「晋作を転ばしてしまおう」
「晋作の気を変えさせてしまおう」
というのです。
晋作の気が変われば玄瑞たちも変わるはずだ、と踏んだのでした。






周布が取った策は晋作を上海に遊学させてあげることでした。
前に欧州行きが直前に無しになって可哀想な思いをさせています。
そのこともあり、幕府が出貿易視察の派遣団を上海に送る計画があり、その随員に
晋作を推挙したのでした。





幕府は上海にあるオランダ領事館を貿易の出先機関にしようと考えていたんです。





晋作今度も大喜びです。





長井襲撃計画などどうでもよく、海外視察の機会を優先します。





周布に長井襲撃中止を約束して意気揚々と桜田の藩邸に帰ります。





周布にしてみればヤレヤレの思いでしょう。
政務役の周布にしても晋作たちは可愛いのです。
何とか守ってやりたかったんですね。





年が明けて1862年(文久2年)1月2日 晋作に正式に上海行きの命が下ります。





次回いよいよ晋作の上海行きになります。
乞うご期待。

高杉晋作 上海渡航前 1861年前半 晋作の迷い [上海渡航前]

高杉晋作 上海渡航前 1861年前半




昨年1860年の秋 試撃行から萩に戻った晋作には明倫館舎長、都講という役職が
待っていました。



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晋作これよりしばらくは大人しい生活を送ります。





明倫館で学生たちの面倒をみたり、撃剣の稽古をしたり、読書に力を入れたりと
「高杉のおぼっちゃま」らしいまたも静かな毎日が続きました。






明けて1861年3月またも異例の抜擢が晋作に下されました。
「世子のお小姓」に選ばれたのです。





世子とはやがて次の藩主になる人物をいいます。
この場合、現藩主・毛利敬親(たかちか)の養子・毛利元徳(もとのり)を指します。
元徳はこの年23歳。晋作と同い年です。
晋作の父・小忠太は元徳の教育係も勤めてきていますから、世子・元徳にすれば
そのせがれの晋作は最初から親近感があったやも知れませんね。






世子の小姓役というのは一種独特なお役目になります。
世子の衣食住のお世話はもとより、藩士たちとの連絡、お取次といった役回りです。
やがてその世子が藩主になった暁には、その世話役であった小姓たちは藩の重役に
なっていくんですね。
つまり将来が約束されたような名誉ある職務だったわけです。
晋作、何の苦労もなく一番美味しいところをあてがわれていますね。






この頃の長州藩の政権を担っていたのは周布政之助を首領とする改革派だったことも
抜擢の原因の一つなのかな、と私は思っていますが。






この下命があった時は世子・元徳は江戸におりまして晋作がお小姓として元徳に
挨拶するのは8月過ぎです。






この頃の我らが晋作、自分の進むべき道について熟考しています。





彼は他の松下村塾の門下生と違いれっきとした長州藩の名門の子弟であり、大人しく
していればそれなりに特権階級の人生をつつがなく送れるはずなのです。
また、それも良いのではないか、とも晋作は考えたりもしました。






自分の中に潜む「狂」の要素を懸命に抑え、俗世間と調和して生きることに人間と
しての福福しさを見出していこうか、と静かな日常の中で考えていました。





師・松陰の意志を継ぐ者は自分しかいない、と思い極めていた晋作にして例外的な
期間でした。





「人には持って生まれた環境や天分があり、天命があるものだ。
にもかかわらず血気にはやって風雲の中に飛び出していくことが真の強者の道に
なるのだろうか?」・・・などなど晋作、考えていたようです。





高杉家の嫡子として長州藩につつがなくご奉公していく自分の生き方もまた良しと
する考えに傾いてきていました。
師・松陰も晋作については先ずはご奉公第一にするがよろしかろう、とアドバイス
していましたね。






しかし、しかし、運命の歯車は晋作を風雲の中へと呼び寄せていきます。






同年7月 世子のいる江戸へ行くよう藩命が下ったのでした。






実はこの藩命、江戸にいる久坂玄瑞ら松下村塾系のメンバーらが藩に画策して晋作を
江戸に呼び寄せたものでした。






彼らは晋作を自分たちのリーダーとして迎え入れたかったのです。






同年8月 晋作、江戸に到着。
仲間たちの歓呼の声に出迎えられます。
この時、晋作「これで俺の人生は決まった」と確信します。
もはや安易な人生は捨て、攘夷運動に身を投じていく覚悟を再確認したのでした。






次回は上海渡航直前の模様をお伝えします。


高杉晋作と試撃行、横井小楠との出会い [上海渡航前]

 高杉晋作と試撃行、横井小楠との出会い 1860年(万延元年)




さてさて我らが晋作、この時期、何をしたらいいのか分からず心の中は
悶々としていました。
何か、理由もなかく、暴れ出したいような、どこかに飛び出していきたい
ような、休火山がその地下でドロドロとマグマが赤く渦巻きながらその
飛び出し口が分からず轟々と煮えたぎっているような精神状態でした。






そんなある日 晋作、突拍子もないことを思いつきます。
藩では最近、海軍教授所なるものを新設しており、そこに入所して軍艦の
操練を学んでみよう、と考えたのでした。






そのことを父に相談したところ意外にも簡単に同意してもらえました。
父・小忠太にすれば過激書生たちと付き合われるよりマシという程度の
ことです。





この当時、長州藩は全長25メートル、三本マスト、乗組員17名という小型
洋式木造軍艦・丙辰丸(へいしんまる)を製造して、保有していました。






幕府は黒船来航を機に二百数十年にわたる大船建造禁止令を解いていました。
これを期に藩では海防準備のため建造に当たったのでした。






航海練習船としてこの丙辰丸を作ったのですが、この当時ではこの規模の船
でさえ幕府以外は持ってはいませんでした。





しかもこの西洋式木造帆船はオランダの造船本をたよりに日本人だけで作り
上げたそうです。





しかもしかも、しかもですね、これより数年後には宇和島藩、佐賀藩そして
薩摩藩で国産の蒸気船を作ってしまっているんです。
日本人の能力の高さを示す一例とされています。
原理がわかれば日本人は直ぐに高度な技術開発ができてしまう民族であるん
です。
技術立国日本の雛形を見る思いです。
日本人ってすごいですよね。






さて話を戻しますが、晋作が父・小忠太に海軍教授所の入所を相談したその
日、1860年(万延元年)3月3日は江戸で大変な事件が勃発していました。






そうです、水戸浪士による大老・井伊直弼暗殺の桜田門外の変が起きていま
した。
もちろん、二人は知る由もありません。





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http://yae.taigadrama.org/main/joseph2.html







※余談ですがレンタルビデオで「桜田門外の変」を借りて観ることを
 おすすめします。
 関鉄之助という水戸藩士を中心に桜田門外の変の実行と、その後の
 薩摩藩側の事情の激変による思惑の失敗によって全員がたどる悲惨な
 末路が描かれていました。
 大変よくできている作品です。
 長谷川京子さんが若くてすごく綺麗です。
 主役は関鉄之助役の大沢たかおさんです。






海軍教授所に入所した晋作ですが、期待に反して全く面白くありません。
かと言って面白くないからやめるわけにもいきません。






そうこうする内、丙辰丸による江戸への航海実習が行われることになり、晋作
手のひらを返したように喜びます。
藩命で堂々と江戸に行けるのです。






この時には小忠太らの耳にも江戸での大事件の様子が伝わっています。
小忠太にしてみればそんな騒ぎの真っ只中に晋作が行ってしまったら、江戸に
いる松陰門下の書生たちと一緒になって何をしでかすやらわかったものでは
ないと、心配しますが、一応藩命なので口出しはできません。
晋作、意気揚々と出航していきます。4月12日のことでした。



高杉小忠太 晩年
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http://sinsaku.access21-co.jp/11cyousyu.html


さてこの航海、江戸にたどり着くまで2ヶ月も掛かっています。
我らが晋作、大丈夫だったのか、心配ですよね。






実は晋作、船酔いでまるで廃人のようになり、船では全くの役立たずでした。
江戸に着き、陸に上がるや、船長で軍艦教授所の責任者である松島剛蔵に
教授所をやめることを一方的に宣言してしまいます。
こんな事、本来、許されるはずがないですよね。





ですが、晋作は切腹覚悟でやめてしまいます。
なんと、ここでも藩は晋作に対し寛容です。





何らお咎めもなく、その上、晋作が文武修行のため江戸に残りたい、と
申し込んだら、これも認めています。
長州藩の重役の一人息子だからこそ許されたわがままなのでしょうか?






いやはや長州藩とはどこまでも書生に甘いんですね。






というよりこの場合、父・小忠太が藩の重職にあり、藩としても将来は晋作に
藩の重責を担ってもらいたいのでしょうか、とにかく甘やかしてます。(笑)





晋作は明倫館で成績も良かったし、撃剣でも柳生新陰流の目録を得るなど
将来を期待されてはいたのでしょうが。






晋作には絵画の才がありました。
が、プロとしてやっていけるほどではない、と自覚しています。


晋作にはの才もありました。
明倫館では誰一人かないません。
しかし江戸で剣術修行をしてみれば自分より剣の才能豊かな人間がゴロゴロ
いることにイヤでも気づかされます。


晋作には詩文の才があります。
これこそはおそらく晋作の中で最も高度な才能でした。
しかし松陰のような思考にまとまりをつける才がやや欠けていたためその才能
を至高の域にまで持っていくことはできませんでした。






自分は何をしたらいいのか・・・晋作の煩悶はこの辺りにあったのです。






後年、彼は詩文を現実化する「革命」の中に自分の才能の発揮場所を見出す
のですが・・・この時点の我らが晋作は船もダメだー、というわけでどうやら
ふてくさっています。






江戸では久坂玄瑞らと久しぶりに会います。
西洋帆船はどうじゃった?との質問攻めにうんざりしたことでしょう。(笑)






そうこうする内にまたもや父・小忠太からの帰藩命令が届きます。
晋作、父の命令には逆らえません。





江戸藩邸の役人から帰藩命令を受けるとさすがにカッコ悪いと思ったのか、
せめて諸国遊歴しながらの帰国願いを藩邸の吏員に頼み込んでいます。






諸国の学者に会い、諸国の道場で撃剣修行をしたい、と申し込んだのでした。
もうお分かりですね。
藩邸から簡単に承知の旨、伝えられます。(笑)






晋作、この帰国の旅を「試撃行」(しげきこう)と名付け、張り切って出かけ
ます。行く先々で剣術の試合をする予定です。






1860年(万延元年)8月28日 桂小五郎や久坂玄瑞などの親しい友達に見送られて
晋作張り切って江戸を出発します。






現在の茨城県の牛久、土浦、府中、笠間と進んで行きますが、様々な事情で
なかなか撃剣の試合ができません。
笠間では加藤有隣という学者を訪ね、意気投合した模様です。






笠間を出て、現在の栃木県宇都宮に入りますがここでも剣術試合はできませんでした。






その後、日光に赴き、鹿沼に至ります。






鹿沼から壬生(みぶ)に入り「聖徳太子流」の使い手の松本五郎兵衛に試合を
申し込み、この旅で初めて試合が出来ることになります。
9月10日から12日まで壬生に滞在し、連日、松本五郎兵衛に立ち向かいますが、
ついに一本も取れず、散々に負けてしまいます。






可哀想に我らが晋作ここでもプライド傷ついてしまいました。






壬生を発った晋作は足利、碓氷峠を越えて信州に入ります。
9月17日から21日まで現在の長野県上田市の上田城下で上田藩士らと剣術試合や
談論をして過ごします。






勝ったり負けたり、もう結果なんてどうでもいいんです。
要は充実した日々が晋作には必要でした。






21日夜には真田家のある松代城下に入ります。
真田家と言えば真田幸村が有名ですが、信州真田家は幸村のお兄さんを祖とする
家です。






この真田家には師・吉田松陰の密航未遂事件に連座して蟄居中の佐久間象山
いました。
晋作も久坂玄瑞も自分達の師の師匠であった佐久間象山には一度会ってみたいと
熱望していました。





佐久間象山
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http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/87086/m0u/






ですが象山、蟄居中ゆえ簡単には会えません。





そこで宿の主人の協力を得て、病気の診療にかこつけて象山との出会いを果たし
ます。





夜を徹して時事問題を論じ合いますが、象山いわく「救国の一字は開国にあり」
の言に晋作は不満です。





この当時の晋作は他の多くの志士気取りの若者たち同様、攘夷鎖国主義のこり 固まりでありましたから猛反発します。
晋作、象山に失望して松代を離れます。





ちなみに久坂玄瑞も2年後の文久2年12月、松代に象山を訪ね、長州藩へ招こうと
しましたが、断られています。






23日の朝、松代を発つと善光寺を見学した後、越後に向かいます。






簡単に書いていますが全部徒歩ですからね。
電車もバスもないんですからね。
雨の日もあったでしょうし、遊学と言ったって大変なことですよね。
山道をたどり、川を渡っての旅です。
晋作は師・松陰が行った旅を自分もしたかったんですね。






やがて日本海側に出ると10月上旬でした。





越前福井藩に到着した晋作はここで横井小楠(しょうなん)を訪ねます。






横井小楠は肥後熊本藩の学者でしたが政治に対する進歩的な考え方が故郷では
理解されず、2年前の1858年(安政5年)に前越前藩主・松平春嶽(しゅんがく)
招かれ越前藩の政治・財政顧問をしていました。




横井小楠
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http://www.reki-c.com/syu_yoko.html





以前、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で坂本龍馬が海軍操練所の運営資金を借りる
ために越前を訪れ、松平春嶽に拝謁した時に傍にいた人物が横井小楠でしたね。
小楠が龍馬に向かって「デモクラチー」って知っとるかね?と質問し、龍馬が
見事に回答している場面でした。






小楠は言います。

政治の要諦は民を富ませることにある。それができない為政者は辞職すべきである。

民間が生産した商品を藩が買い上げ、藩が商売を行い、積極的に民を富ませる
ことが肝要である。

これは封建制度を根本から揺るがしかねない考えでした。






小楠の進歩的な考えに感激した晋作は小楠を藩校明倫館の学頭に迎えることを
考えるほど心酔します。






小楠との出会いを果たした晋作は大阪に出て、海路、帰国します。
萩に帰り着いたのは10月下旬のことでした。






藩は帰ってきた晋作を明倫館舎長に任じます。
舎長という役職は書生大将のようなもので、この藩の青年たちのあこがれの職
です。





その一月後さらに都講(とこう)といい、生徒の代表役の地位に就かしめています。
藩の晋作に対する人事は常に寛容と好意に溢れています。






晋作の生い立ちには苦労というものが全くなく、その甘やかされたままの資質を
藩は大きな心で受け入れ、将来的には藩の重要な職に就けようとしているのです。

思うに高杉家の三百年来の実績がモノを言っていると私は思うのですが、皆さん
どう思われますか?





こうしてハラハラドキドキの父・小忠太と息子・晋作の1860年は無事終了して
いきます。





明けて1861年は文久元年と年号が改まります。

いよいよ久坂玄瑞らの松下村塾系の書生たちが動きまわり始めていきます。






以下、次項で書いてまいります。

ご精読ありがとうございました。





高杉晋作と妻まさ [上海渡航前]

高杉晋作と妻まさ




1860年(安政7年=万延元年)1月23日
晋作この時まだ20歳で結婚します。



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http://kyouongiga.com/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%...







お相手は奥番頭の一人 井上平右衛門(へいえもん)の娘・雅(まさ)です。
雅この時16歳。
萩城下一の美人と噂されていました。




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http://baisho.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-...






父・小忠太はこの可燃性の高い、いつ暴走するかわからない息子のことが
心配で心配で堪りません。
何とか晋作を落ち着かせようといつも心を砕いていました。






今回、晋作を萩へ呼び戻したのも松陰との交流に不安を持ち、攘夷運動
の立ち上げに躍起になっている書生グループとの関係が深くなるのを恐れ
たからでした。





父・小忠太は晋作の少年時代から何を仕出かすかわからない鬱懐(うつかい)
のようなものが晋作の中に潜んでいるのを知っていました。






この高杉家の話題は常に晋作の心配ばかりで占められていました。
祖母などは一年中、晋作の風邪のことばかりを気遣っていました。
晋作は子供の頃から気管支が弱く、風邪をひくとなかなか治らなかった
そうです。





そういえば、晋作の最期は労咳が原因でしたね。
剣術の稽古で身体を鍛えていたから何とかもっていたものの、本来は
体力的には無理が効かない体質だったはずではないでしょうか。






また勝手に想像してしまうのですが、咳をする度に晋作は自身の寿命が
普通にはないんじゃないかと思っていたりしたんじゃないでしょうか。






ただでさえ短いこの命を燃やし尽くす何かを求めていて、そして師・松陰
との出会いで自分の生きる道を見出した思いがあったのではないでしょうか。






生き急ぐ・・・という感覚が松陰の言う「・・・死して不朽の見込みあらば、
いつでも死ぬべし」という言葉や他の言動に見事に反応したのでは・・・。





時は幕末、西洋列強の日本侵略の脅威に全ての行動に命を捨ててかかっていく
以後の晋作ですがその性格、素質に加えて幼少期からの身体の状態も案外
関係したのでは、と考えます。
考えすぎですかね?(笑)





さて父・小忠太は息子・晋作の操縦法を心得ています。
晋作は親に対する「孝」と藩主に対する「忠義」に関しては決しておろそかに
しない性質を強烈に持ち合わせているのです。
見かけとは大違いなんです。





ですから晋作が過激な行動に出る前にどんどん自分の元へ呼び戻したり、
一人息子であることを理由に早く妻帯させようとします。





この時代、武士は早く子孫、跡取りを作り、家を続かせることこそが第一の
「孝」であったのです。
また、家の存続は主君に対する「忠義」を持続するための必須条件でも
ありました。






攘夷運動に対する思いがある晋作にとっては妻帯は足かせになり兼ねない
ものでしたが、こういうアプローチで父から迫られると断り切れません。





しかし晋作、ここで割り切ります。
子孫を作ることが「孝」であるなら、それだけは受け入れよう。






すでに松陰の死を知って、師の後継者は自分である、と決意していた晋作
です。
ここはとりあえず親に「孝」を尽くしておこう・・・と。






また、それは図らずも師・松陰が晋作に宛てた手紙の中の「・・・まず
孝を尽くしなさい・・・」との内容に合致するものでした。






城下一の美人か・・・いいなぁ、なんて思いますが。






晋作のすごいところは美人の妻にも縛られず、自分の信じた道を結局は
ひた走るんですね。






二人の結婚生活は晋作が没する29歳までの約8~9年間ですが、実質的には
1年半あるかどうからしいです。






せめてもの救いといいますか、1864年(元治元年)10月に一人息子の梅之進
(うめのしん)をもうけたことでしょうか。






大正の世になって雅は雑誌のインタビューに答えて「私は高杉と一緒にい
ましたのは、ほんのわずかの間で、その間、東行はいつも外ばかり出てい
ました上、亡くなりましたのが未だ29というほんの書生の時でございまし
たから、私には何にも東行についてお話する記憶がありません」・・・
と述べています。






いやー、妻としては何とも寂しい思いをされたのでは、とつい同情してし
まいますね。






外にいる晋作から数少ない手紙が雅に届いています。
雅は生涯それを大事にしていたそうです。
昔の女性って本当にけなげです。






今の日本でけなげなのは"なでしこJAPAN"ぐらいですかね?
(言い過ぎでしたらすみません)






ともかく、我らが晋作、自分の道を突き進むことになります。






以下、次項に続けます。





ご精読ありがとうございました。




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