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高杉晋作 上海渡航前 1861年後半 [上海渡航前]

高杉晋作 上海渡航前 1861年後半





この年1861年(文久元年)の江戸の長州藩邸といえば、過激書生の巣窟でした。
ただ闇雲に「夷狄(いてき)斬るべし」「攘夷、攘夷」と叫ぶ状態でした。






リーダー的存在としては桂小五郎がいました。
思慮深さもあり、同士に対する親切心もあり、その点、確かに人望はありましたが
自ら時代の局面を切り開いていく創造的才能を持っておらず、兄貴分または相談役
といった存在でしかありませんでした。






水戸藩の吉田東湖、薩摩藩の西郷隆盛、土佐藩の武市半平太らと比べるとどうし
ても見劣りがするのです。
久坂玄瑞においても同様で議論の鋭さにおいては桂小五郎を凌駕するものがあり
ますが、それをどのように具体的に実行せしめていくかの決断力と思慮ににやや
欠けていたのです。






水戸も薩摩も土佐も彼らのリーダーが「こうする」と言えば後は何も考えず、ただ
忠実に実行していったのですが、長州は理論・理屈ばかりが目立ち、肝心の
計画実行という行動力において見劣りがしていました。
つまり戦略的感覚を持ったリーダーがいなかったのです。
決断のもと、自分や同士を死地に追い込んでも断固実行せしめさせるボスが必要
でした。






1年前 水戸浪士による桜田門外の変以降、水戸藩は藩内の政治的対立が激化し、
過激攘夷はすり潰されていってしまいました。






今や江戸で過激攘夷論者と言えば長州藩と言われるまでになっていました。
ただこれは長州藩の藩論ではなく、松下村塾系の書生たちが勝手に息巻いて、
他藩の攘夷活動家と会合を持ったりしていただけのことでした。
「長州は口だけだ」という批判的な見方をする攘夷活動家も出てきていました。






「晋作を江戸へ呼ぼう」・・・自分たちの総大将になってもらおう。






で、降って湧いたような藩命で晋作は江戸へ引きずり出された格好です。





高杉晋作
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http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_07.html






この当時、玄瑞らは長州藩の藩論を「攘夷」にしようと藩の重役らと議論を重ね
ていました。





そんな折、藩主・毛利敬親(たかちか)の下命により、藩の重臣であり、政務役の
長井雅楽(ながいうた)にこの混乱の収拾策を献策させました。
「航海遠略策」がそれでした。

長井雅楽
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https://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&msa=0&outp...



どういう内容かというと、朝廷と幕府が手を結び、開国の上、貿易を盛んに行い、
西洋の文明・技術を積極的に学び、国力をつけた上で夷狄と対等に対峙し、ゆく
ゆくは五大州を日本にひれ伏させしめていこう・・・というものです。
幕末最大の論文ではありました。






初め、長井雅楽はこの策を提示することに躊躇しました。
藩内の過激書生たちの大反発が容易に予想できたからでした。
鎖国攘夷で煮えたぎった油のように沸騰している彼らにはとても理解されない
であろうことは明白です。






ですが藩主・敬親は大いに気に入り長井に京・江戸での説諭を命じました。






1861年4月から8月の間、長井は藩主の命を受け、長州藩の特命大使として京の公家、
江戸の幕閣に長州藩の藩論として説明して回るとともに、書生レベルの議論のみで
相手を服従させようという子供じみた真似はせず、公家にも幕府の要路にも十分な
金品を送りつけ、彼らの心をも掴んだのでした。
この辺は大人の振る舞いですね。さすがです。






ここ数ヶ月の長井の活躍で藩論は開国に大きく傾き掛け、公武合体論が台頭し始め
ました。





こういう時期に晋作は江戸にきたのです。






玄瑞は議論の席でこう言います。
「長井、斬るべし」
「晋作、君はどう思う?」





晋作、一言答えて言います。「斬ればいいじゃないか」





この一声で長井暗殺計画が後々玄瑞を中心に実行に移されていきます。



※あのですね、晋作は簡単に「斬ればいいじゃないか」と発言していますね。
  晋作 、こう言った瞬間、死を覚悟して言ってるんです。
  師・松陰の教えの中に「どのような小さな事でも実行には常に死の覚悟を持って
実行しなさい」というのがあり、晋作それをこともなげに言っているんですね。



※それと長井雅楽の暗殺計画ですが「航海遠略策」に対する批判もさることながら、
  師・松陰の江戸召喚と死刑に至る一連の流れに長井雅楽が一枚噛んでいるのに
 違いない、という誤解も重なって、ヒステリー状態で長井憎しの感情に拍車をかけ
ていました。
本当は松陰と長州藩を守るために松陰を野山獄に入牢させたのですが、玄瑞ら
にはそういう理解がなかったのです。






江戸で世子お小姓役として勤務を始めた晋作にヨーロッパ諸国を巡る機会がやって
きます。
幕府が遣欧使節の計画を発表し、それと知った周布政之助が晋作を長州藩代表の
一人に選んだのでした。
晋作がその内命を知らされたのが9月9日。
晋作、大喜びです。






が、しかし、幕府から、長州藩からは一人のみしか随行を認めないとの達しがあり、
9月の末に晋作は正式に随員から外されてしまいました。
晋作、超ガッカリです。
故郷の妻や家族、そして友人たち皆に欧州行きを伝えていただけにカッコ悪いこと
甚だしい。






勤務の傍ら、玄瑞らと長井襲撃の打ち合わせを重ねます。






そんな折、晋作や玄瑞らの企てに気づいた桂小五郎は彼らの秘密会合の料亭に赴き、
隣の部屋に潜んで話の内容を盗み聞きします。
予想通り長井暗殺計画でした。






藩主の名代として江戸に入説にきている長井を殺せば下手人はことごとく死罪となっ
てしまいます。





桂は麻布にある藩邸に戻り、周布政之助に報告します。
桂も周布も彼らを罪人にしたくはありません。





議論で彼らを説き伏せるのは不可能と知っていたので、周布は一計を案じます。
「晋作を転ばしてしまおう」
「晋作の気を変えさせてしまおう」
というのです。
晋作の気が変われば玄瑞たちも変わるはずだ、と踏んだのでした。






周布が取った策は晋作を上海に遊学させてあげることでした。
前に欧州行きが直前に無しになって可哀想な思いをさせています。
そのこともあり、幕府が出貿易視察の派遣団を上海に送る計画があり、その随員に
晋作を推挙したのでした。





幕府は上海にあるオランダ領事館を貿易の出先機関にしようと考えていたんです。





晋作今度も大喜びです。





長井襲撃計画などどうでもよく、海外視察の機会を優先します。





周布に長井襲撃中止を約束して意気揚々と桜田の藩邸に帰ります。





周布にしてみればヤレヤレの思いでしょう。
政務役の周布にしても晋作たちは可愛いのです。
何とか守ってやりたかったんですね。





年が明けて1862年(文久2年)1月2日 晋作に正式に上海行きの命が下ります。





次回いよいよ晋作の上海行きになります。
乞うご期待。


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