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高杉晋作 禁門の変 1864年7月19日 [晋作登場]

高杉晋作 禁門の変 1864年7月19日



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さあ大変なことになりました。





桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作の勧告を無視して
来島又兵衛ら進発派がついに京へ向け出港してし
まいました。





普通では考えられない行動です。





というのは藩主親子の了承もなく、藩主は棚上げ
にして「藩主の為に。長州藩の名誉のために」と
御所への直接陳情団となって勇んで出ていったわ
けです。





陳情が成功しなければ薩摩・会津と死闘をする覚悟
です。






1864年6月24日 二千数百人という大部隊が京の郊外
山崎・伏見・嵯峨天竜寺に分散布陣を終えると直ぐに
戦が始まったわけではありません。






天子に対し長州の赤心を理解してもらい、長州の立場を
再び認めてもらうための陳情活動が必要でした。






長州藩に同情的な公家や大名らにこの旨を天子に
取り次いでくれるよう八方手を尽くします。





この間なんと20日間。






御所警備の総責任者となった幕府はこの20日間で鉄壁の
防衛体制を布きます。






なんと30を超える藩が動員されました。






この時点で長州進発軍に勝ち目はなくなってしまいました。






長州にとってはこの進発の主旨が長州の思想を訴えるもの
であったため、戦という観点からは後手を踏むのは
しかたなかったのかも知れません。





ついに7月19日






長州軍は一斉に御所を目指して進撃しますが重厚な大防衛
陣に阻まれ容易には進めず苦戦を強いられ、やがて敗走し
ます。





敗走の途中、捕縛される者あり、腹を切る者あり、逃げる
ための船を焼かれ多くの者が溺死させられたりと悲惨を通り
越した惨劇状態です。





そんな中で来島又兵衛率いる一隊だけが包囲網を潜り抜け
御所に到達します。






蛤御門を打ち破って御所に乱入すると、当時最強の呼び声
高い会津藩を一時は潰走せしめ暴れまくります。






その戦況をひっくり返したのが薩摩藩でした。
西郷隆盛が指揮をとって、来島又兵衛を狙撃させます。





見事に命中し又兵衛が落馬し、自ら手槍で首を突き自刃
すると隊の士気は消失、一散に逃げ出します。






久坂玄瑞の一隊が御所に到達した時には又兵衛は既に自刃
した後でした。





久坂玄瑞の一隊はなお陳情しようと鷹司邸に入り、陳情に陳情
を重ねようとしますが無駄でした。






鷹司邸は諸藩の兵で取り囲まれ隊の大半がここで戦死します。






燃え上がる鷹司邸で、久坂玄瑞も松下村塾の同窓の寺島忠三郎
とともに切腹して果てます。





この時やはり村塾同窓の入江九一も自刃しようとしましたが、
玄瑞からこの京の模様を藩主に報告するよう言われ、穴門から
脱出を試みましたが、待ち伏せていた越前福井藩の兵に槍で頭
を突かれ、両目が飛び出し、脳漿が流れ出るという無惨な死に様
を迎えてしまいます。






この戦乱で吉田松陰の門弟の多くは死に、晋作の友人のほとんどが
死んでしまったのです。






晋作、野山獄をでて自宅の座敷牢で蟄居、謹慎している最中の
ことでした。






「お家は潰れた」・・・父・小忠太がつぶやきます。






これをもって長州藩は正式に朝敵の汚名を着せられ、後に第一次
長州征伐をまねくことになるのです。






京都御所を訪ねた折り蛤御門に当時の弾丸の跡が確かに見て
とれました。






またこの変で京は大火事となち多くの人が焼け出されました。



高杉晋作 入牢 大潰乱の始まり [晋作登場]

高杉晋作 入牢1864年(元治元年)



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来島又兵衛への説得に失敗した我らが
晋作。
みごとにプッツンして、「俺の方が暴発
してやる!」と捨て台詞。

船に飛び乗り大阪へ。
そこから京街道を真っ直ぐ京へ。
立派な(?)脱藩行為です。





京の藩邸に着くと誰もいません。

ガラーン。

昨年の八月十八日の政変以前で
あれば諸藩の攘夷運動家たちで
毎日がやんや、やんやの大騒ぎ
であった藩邸が静まり返っています。





桂小五郎と久坂玄瑞の帰りを明か
りも灯さぬ暗い部屋でじっと待ちます。





両名が夜も遅くなって帰ってみると、
そこに、今一番京にいてほしくない
晋作が端座しているではありませんか。


桂小五郎
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久坂玄瑞
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http://matome.naver.jp/odai/2140793586209682701/21...


ビックリ仰天!





何故、今ここに晋作がいるのか、事の
顛末を晋作に尋ねます。





来島又兵衛が頑固で言うことを聞かない。
国許は今にも暴発しそうな状況である。
自分の目で京の情勢を見聞してきた
うえで又兵衛に報告し、説得するつもりで
京に出てきた。



来島又兵衛
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両名に晋作は答えています。





今の状況で京への進発は長州藩を
朝敵にされる危険がある。
さっそく帰藩して又兵衛を説得してくれ。




両名は晋作に頼みます。




が、晋作、帰る気がありません。





帰藩して又兵衛を説得しても無駄だ
と決めつけていたのです。

その日以来、晋作は酒に溺れる毎日
を過ごします。





そんなある日、土佐藩の運動家の中岡
慎太郎に出会います。
中岡は長州の支援者で桂とは昵懇にし
ていました。


坂本龍馬とともに刺客に襲われ死亡す
る人物です。



中岡慎太郎
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おっかない顔してますが、笑うとこんな感じ。

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http://www.shotentai.com/nakaoka/nakaoka-1.html



晋作のやり場のない心境を見抜いた中岡
は晋作に島津久光暗殺を持ちかけます。




島津久光の行動調査を土佐の浪士が始
めます。
晋作は中岡とともに死を決してその機会
を待ちましたが、ついに機会がありませ
んでした。


晋作、藩命によりしぶしぶ帰国します。




さて帰国してみると「脱藩の罪により、
入牢申しつける」という意外な藩命が
待っていました。




晋作は山口の政庁前から囚人用の籠
に乗せられ、萩に送られ、師・松陰がか
つて入牢していた野山獄に収監されます。




半年程前には藩の政務役だった晋作が
今や囚人です。




当時の入牢には期限などなく、いったい
いつになれば出られるかわかったもの
ではありませんでしたから、「死測るべ
からず」と晋作は書に書き、密かに死
を覚悟しました。




晋作の入牢については発狂状態の進
発派が晋作がいては邪魔だ、というん
で藩庁に迫り、入牢の措置を取らせた
ものでした。




その進発派にとって最後の邪魔者が政
務役筆頭の周布政之助でした。

周布は万策尽き、ついに自刃して果てま
す。

歯止めのなくなった進発派はついに京へ
向います。




周布政之助
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大潰乱の始まりです。

高杉晋作 再び脱藩 蛤御門の変直前の状況 [晋作登場]

高杉晋作 再び脱藩


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馬関海峡での大敗を受けて毛利藩は上も下も
大騒ぎになりました。
「日本刀の切れ味をみせてやる」なんて呑気な
こと言ってる場合じゃぁない。

しかしながら「攘夷」の意気だけは盛んでした。




そんな中、晋作は藩主の命を受け、独自のアイ
デアで奇兵隊を創設、その訓練に励みます。
1863年の6月からですね。




そうこうしているうちに京で大変な事態が勃発
します。

そうです。八月十八日の政変です。




長州藩の攘夷運動の凄まじさに脅威と嫉妬心
を持っていた藩がありました。

薩摩藩です。

西郷隆盛でさえ、この時点では「長州は攘夷、
攘夷と言っておきながら実は長州幕府をつくる
気なのではないか?」と考えていたようです。




攘夷・開国・政体の一新においてイニシャチブを
とりたい薩摩藩としては長州藩の動きは目障り
です。

この辺で長州藩を蹴落としたい薩摩藩はなんと
佐幕派の代表みたいな会津藩と手を組み、朝廷
内でクーデターを起こします。




天子(この場合、孝明天皇のこと)が実は長州藩の
過激ぶりをこころよく思ってはいないことを知った薩
摩と会津は密かに天子を味方に引き入れ、勅諚を
発し、御所の全ての門を占拠し、長州藩士の入門
を禁じてしまったのです。

さらに御所だけでなく長州藩に対し京都から出ていけ
、と勅諚を楯に追い出してしまったのです。

長州藩に協力的だった七人の公家も同様でした。




世に言う「八月十八日の政変」です。




降りしきる雨の中、久坂玄瑞らは七卿を伴い、
唇を噛んで悔し涙で一路、萩を目指します。




とにかく京の政情は、一夜でカラスが鷺(さぎ)に
なるほどに一変してしまいました。




薩摩にしてみれば「してやったり」。
長州にしてみれば呆然自失、「おのれ薩摩」ですね。

ここから長州藩と薩摩藩の確執が始まります。




この政変が萩に伝わるやいなや大変な騒ぎに
なります。




攘夷の先鋒を務めている我ら長州藩を天子は
何故ここまでの仕打ちをなさるのか?




何としても天子に会い、長州藩の赤心(せきしん:
赤ちゃんが母を慕うようにひたすら天子様のことを
思い慕っている心情のことです。心が赤いわけでは
ありません。笑)をもう一度知ってもらわねばならない
・・・。



ということで薩摩・会津が守る京へ進軍するため進
撃軍の編成がなされたりしていきます。




普通なら藩の正規軍である上士たちを中心に
進撃軍を構成するのが当たり前ですが、
なにせその根性無しぶりが分かっているだけに
別の構成を考えます。



奇兵隊をここで使いたいところですが、奇兵隊
を連れていくと下関の守備が手薄になってしま
います。



そこで考えたのが民間の有志を集め、遊撃軍
を作ろう、という案です。
奇兵隊ができたことで民間人にもその下地がで
きていた、ということでしょうか。




先ず鉄砲撃ちの猟師たちを集め、「狙撃隊」
ができました。

次に職業ごとに有志の集団を作りました。




例えば神主たちは「神祇隊(じんぎたい)」
僧侶たちは「金剛隊」
力士たちは「力士隊」
お百姓たちは「郷勇隊」
町人たちは「市勇隊」

というぐあいです。

総勢600人余りがたちまち集まりました。



先に長州は藩をあげて狂った、と書きました
がこの集まり具合をみてもその狂気の程が
伺えますね。



武士たちのみならず民間の町人、お百姓さん、
神主、僧侶までが「攘夷、攘夷」で沸騰してい
るのです。

こんな現象は他藩では起こりませんでした。



吉田松陰が幕府の科人(とがにん:犯罪者)
として萩に送られてきた時はその「狂気」を
誰もがひそひそと批判していたものですが、
松陰なき今、誰も彼もが「狂気」に染まって
いるのでした。




こんな時に、冷静に「外国と戦争など無益で
ある。とてものこと勝てる見込みはない」
などと一言でも口走れば、突き上げられ、
殺されてしまうしかないでしょう。



日本地図を頭に思い浮かべてみてください。
山口県だけが真っ赤に狂喜乱舞している様
を想像してみてください。
この時、この長州ははっきり言って「異常」
だったんですね。

歴史上、大変に稀有なことです。



これらの市民軍団を統括したのは来島又兵衛。
長州きっての豪勇の士として評判の高かった
人物です。
年は40代、当時としては初老の人です。




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又兵衛のもと、これら市民兵は戦闘の猛訓練を
受けて、いよいよ気勢を上げていきます。

又兵衛自身も一刻も早く京へ進発したくてうずう
ずしています。



世子(次代の藩主のこと:毛利輝元)を上京
させて天子に陳情しよう、と一度は藩論が
まとまりましたが、京にいる桂小五郎や久坂
玄瑞らからの報告では、今、京に出兵しては
事態をさらに悪化させるだけとのこと・・・。


結局、無期延期の形になってしまいます。



おさまらないのは来島又兵衛です。



「脱藩して浪人になってこれら遊撃軍を
率いて京に進発する」と息巻いて今にも
船に乗り込み、出発する姿勢をみせます。



藩庁はうろたえ、頭をかかえます。
又兵衛を説得できる人物など皆目いない
のです。



結局、晋作にその大任が下されます。



晋作、複雑な心境です。



晋作にしてみれば自分があれら遊撃軍
の連中を引き連れ、京に乗り込み、憎っくき
薩摩・会津に一泡吹かせてやりたいところな
のに、藩庁の政務役という堂々たる重臣の
立場からはそれもできず、やむなく、世子の
親書を携え、上使という立場で又兵衛に
相対しますが、又兵衛は説得に応じません。



年が明け1864年元治元年の正月のことでした。



三日間に渡り晋作にしては我慢強く説得に当たっ
たにも関わらず成功せず、晋作ついに切れてしま
います。


プッツンですね。

又兵衛の吐いた言い条が効いています。



「おぬしゃ、もっと気骨のある男かと思って
行く末を楽しみにしておったが、なんのこと
かい。藩庁の俗吏どもに頼まれてこの俺の
正義の暴発を止めるためにやってきたか。
いつ骨が柔らこうなった。
新知160石の毒が、どうやら寅次郎(吉田松
陰のこと)ゆずりの魂を溶かしてしもうたらし
いのう」



完全に切れた晋作、「もういい。それなら
わしのほうが暴発してやる」と言って
驚く又兵衛を尻目に三田尻から船に乗って
上方へ奔ってしまいます。



藩庁に何の届出もなく、いきなりのこの行動
は「脱藩」となります。



政務役という藩の重臣という名誉ある地位を
事もなげに捨てて脱藩してしまったわけですね。
この辺は誠に晋作らしい行動力ではあります。



厩舎に繋がれ、足を蹴飛ばし、暴れまくって
興奮している馬の状態の来島又兵衛と遊撃
隊はどうなるのでしょうか?



次項にて記述いたします。

いつも長文のご精読ありがとうございます。






高杉晋作 奇兵隊創設2 [晋作登場]

高杉晋作 奇兵隊創設2 1863年

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晋作が奇兵隊を創設した理由は二百数十年の太平に
慣れきっていた正規の武士達が全く実戦に役立たなか
った現実があります。




ま、無理もないとは思いますが。




身分に関係なく国を守る志のある者は誰でも兵士に
なれる、ということは一生、お百姓のままを余儀なく
される若い者たちには世に出る千載一遇のチャンス
と感じられたことでしょう。





晋作が白石正一郎邸で旗揚げするやたちまち数十、
数百の兵士が集まりました。




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http://bushoojapan.com/tomorrow/2013/08/07/3171




藩主親子はこれを晋作の実力と認め、なんとなんと、
政務役に抜擢し、新たに160石を晋作個人に加増し
ました。




政務役に就任するということは、藩の重臣になること
ですから、昨日まで坊主頭を決め込んで政治や革命
とは無縁の生活をしようとしていた人間にすれば
180度の身分的大転換ですね。




ま、本来ありえない人事です。




藩の危急存亡の時でありますから困った時の高杉家
なんですね。



こういった軍隊は封建制度のもとではあってはならない
存在でした。
封建社会の秩序と安定は、身分に等級を付けることで
成り立っていましたから百姓・町人は大小も差せないし、
姓も名乗れないわけです。




この大前提を晋作はひっくり返してしまったわけですね。




藩主らはこれをおうように認めましたが、おさまらないのは上士たちでした。



この奇兵隊の若者たちと正規軍である上士の武士達は
出くわす度に悶着を起こしたようです。




上士たちにすれば百姓・町人が刀をさして往来する姿に
我慢ならない鬱憤がつのります。

奇兵隊の隊士にすれば上士たちの戦でのふがいなさを
目のあたりにしているので、すれ違うたびに「腰抜けどもが」
と聞こえよがしに言っては喧嘩を売ろうとしたりします。




いろいろ問題もあることはあったのですが、結果的には
晋作は四民平等の市民軍を作り上げてしまったのでした。




晋作自身にも武士の時代を終わらせるという意識はなか
ったのですが、結論的には明治維新はこの奇兵隊創設 から始まった・・・と歴史学者は認めているようです。




さてこの奇兵隊ですがその運営には藩から独立していな
ければ上士たちの正規軍から取り潰される恐れもありました。




そこで晋作は豪商の白石正一郎に財政援助を頼んだわけ
ですね。



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http://ameblo.jp/195906/entry-11175679371.html





この白石正一郎、家産のすべてを晋作の理想の実現のため
に捧げ尽して最期は無一文になり、晩年は赤間宮(あかまぐう
)の宮司になってしまいます。




町人が国事に発言し、尽力できる機会など徳川三百年始まって
以来のことであり、王政復古のお役に立てるならどんな事でも
惜しまぬ気概をもった白石正一郎という人物。




こういう人物がいたんですねー。




この人がいなかったら奇兵隊はありえたかどうか、それほどの
人物です。

高杉晋作 奇兵隊創設 [晋作登場]

高杉晋作 奇兵隊創設 1863年






東行と称して松本村の一隅で政治や革命を離れ気ままな生活を送ってみようとする
晋作でしたが、どうやらそうもいきません。


高杉晋作
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http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_hakonesekisy...






晋作が4月10日に萩に戻ってからひと月で5月10日です。
馬関海峡では玄瑞の指揮の下、外国艦船に砲撃。
ついに攘夷を実行したのでした。
下関戦争の始まりです.






この後、八月十八日の政変、外国連合艦隊の報復攻撃、禁門の変、第一次長州征伐
と矢継ぎ早の、目まぐるし過ぎる変化に長州藩は見舞われます。







さて京において将軍・家茂が苦し紛れに5月10日をもって攘夷を実行すると天皇に
約束した事を受けて玄瑞らは大挙して長州に戻ります。






5月10日になりました。






夕刻、馬関海峡に米国の商船が通りかかります。
長州藩は軍艦から艦砲射撃を行ない数発を被弾させました。
米国商船は驚愕し上海に向けて逃走しました。





いよいよ攘夷戦が始まった・・・ということで藩内は騒然となり武士達は出陣の
したくを急ぎ、足軽・中間にさえ藩庫から槍が配られました。






この第一戦の急報は翌日、日本海沿岸の萩にまで届きました。
父・小忠太は嫁のお雅に晋作に伝えさせました。






長州は藩をあげて気が狂ってしまいました。
攘夷、攘夷と叫んでいるうち、ついに行き着くところまで来てしまった、という
観があります。
5月10日をもって攘夷を決行したのは長州藩のみでした。
他の藩は幕府が朝廷に対して示した攘夷実行の期日や約束をまともには受け取って
いませんでした。





上海にたどり着いた米国商船からの連絡を受けて横浜駐在の米国公使を通じて幕府に
抗議しただけでなく一万ドルというとほうもない損害賠償を要求しました。






5月23日 今度はフランスの東洋艦隊に所属する通報艦キャンシャン号が長州藩の
砲撃を受けます。
この砲撃で搭乗していた公使館付き書記官が負傷し、水兵4人が死亡しました。
キャンシャン号は上海へ逃げ去ります。






5月26日 今度はオランダ軍艦メジュサ号が被弾します。
この時はメジュサ号からの反撃があり長州藩の軍艦葵亥丸(きがいまる)がマストを破損
しています。






天子からのお褒めの言葉が下され、長州藩は喜びに爆発します。






しかし良かったのもここまで。






6月1日 米国軍艦ワイオミング号が報復攻撃のため下関に来襲。
約1時間で亀山砲台は破壊され、軍艦葵亥丸は大破、庚申丸は撃沈、壬じゅつ丸は
大破沈没。長州藩側の死傷者8名。







6月5日 フランスの軍艦セミラミス号とタンクレード号が下関に来襲。
フランス兵200数十名が上陸し前田村の農家22戸と長州軍の本陣慈雲寺を焼き払い、
前田砲台を一時占拠して大砲を使用不能にして去っていきました。
長州藩側の戦死者5名。






前田砲台
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この時露呈したのが正規武士団の不甲斐なさでした。
太平に慣れ切った武士達は現実の戦では素人集団にしか過ぎなかったのです。






敗因は晋作がかねて危惧していた軍備の不足にありました。
青銅式の大砲は射程距離も短く、破壊力も正確性も西洋式にはとても及びません。






敗報に驚いた藩主と世子は晋作を呼び出します。
困った時の高杉家なのです。






晋作、世子に進言します。「奇兵隊」の創設です。
進言が認められ、即座に下関の防御を一任されることとなります。






十年の賜暇はたった3ヶ月足らずで終わりです。






晋作、下関にある白石正一郎という商人を訪れ「奇兵隊」の構想を話し、協力を
依頼しています。






6月7日から奇兵隊隊士の募集を行うと足軽、中間といった軽卒や百姓、町民まで
多くの若者が参加してきました。






民衆を巻き込んだ軍制のあり方は長州藩だけのものでしたでしょう。
後年、同盟を結び共に維新の戦争を行った薩摩藩にせよ、敵対した会津藩その他の
諸藩にせよ戦ったのは武士ばかりでありました。







5月10日からの戦いで積極的に活躍したのが玄瑞率いる光明寺党といわれた有志達の
集団で、その多くは軽卒と呼ばれる下級武士が中心でした。
彼等の多くが後の奇兵隊の中核を占めていきました。
晋作は光明寺党の活躍から奇兵隊の着想を得たのかも知れませんね。






ここから晋作、表舞台に登場です。






続く。

高杉晋作 箱根関所破りと将軍暗殺計画 1863年 [上海渡航以後 ]

高杉晋作 上海渡航以後 箱根関所破りと将軍暗殺計画 1863年





御成橋事件で幕を開けた1863年(文久3年)は長州藩にとって波乱の幕開けの
年となります。






八月十八日の政変、馬関海峡での異国船砲撃実行といよいよここから長州藩は
一藩上げて尊王攘夷に発狂する状態に入っていきます。
それはまさに「発狂」でした。






しかし我らが晋作の考えとはいささか異なる部分もあり、晋作としては納得のいく
ものではありません。






ともあれ御成橋事件は長州藩自体が驚き慌て、晋作を江戸に残しておいたのでは
何をしでかすかわかったものではない、ということで世子・元徳の命で京へ来る
よう仕向けられました。

重臣たちの言う事は無視する晋作ですが、藩主と世子の言う事には決して逆らわ
ない晋作の性格を見越しての命令でした。






晋作、重い腰を上げ、3月1日、京へ向かって出発します。



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http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_07.html


東海道を京へ向かうわけですが、大きな関所として有名な箱根の関所がありますね。
他の関所というのは江戸も末期となりますとそれほど厳しくはなかったようですが、
この箱根の関所だけは別格で相当に厳しかったようです。


高杉晋作
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晋作、早籠でこの関所に乗り付けますが駕籠かきを叱咤して、役人の制止を振り払
って通過してしまっています。
「関所なんぞは幕府の私法である。天下の往来を私する幕府が間違っとるんじゃ」
ってなもんです。






役人は馬やなにかで追いかけなかったんでしょうかね?
とにかく晋作、白昼ぬけぬけと箱根の関所破りをしてのけています。
これは前代未聞の出来事で徳川幕府始まって以来の事です。
その後、駕籠かきはどうなったんだろう、なんて考えてしまいますが。






さて晋作、京に到着します。それも3月9日に着いていますから相当に急いだ
様子が窺われますね。たぶん世子がそうせよと言ってきていたのでしょう。





その少し前、3月4日に将軍・家茂が京に入っています。
三千の兵を連れての入京でした。






本来、挨拶などする必要のない朝廷のもとへわざわざやって来るなど家光以来
二百三十年間絶えてなかった異常事態です。





将軍に天皇を拝ましめるというこの筋書きを描いたのは玄瑞らでした。
過激派の公家を使ってまんまと将軍を京に引きずり出しました。






なにせ三千もの兵が来たのですから京は空前の混乱とにぎやかさの中にありました。





長州藩の藩論は攘夷ということになっていましたから、将軍をして攘夷の決行期日を
約束させようとの魂胆もありました。





またさらに将軍滞在中の予定として天皇に供奉して将軍が上賀茂、下鴨神社へ参拝する
という大デモンストレーションを計画し、実行しています。

これによって将軍は天皇の臣下である、ということを天下に見せつけようとの魂胆です。

さらに石清水八幡宮に天皇のお伴をして将軍が参詣することになりますが、これは取り
も直さず将軍が神と天皇と天下に対し即時攘夷を誓うことを意味するものでした。






晋作にすればお笑い千万な仕掛けということで、「神に詣でただけで将軍が攘夷を実行
などするものか」と公言します。
それよりこんなことに莫大な藩費を無駄使いせず、もっぱら新式武器の購入にあてるべきだ、と
考えています。





玄瑞にすれば石清水八幡宮に参詣して攘夷を誓った以上、それを破るならば幕府を討つ
口実となるのだから十分に意味があること、と主張します。





ともあれ全ては玄瑞ら長州藩の描いた通りに進行します。






将軍は攘夷期日の明確化を強く迫る朝廷に対し苦し紛れに「五月十日」と口約束して
しまいます。






現実に長州藩の独り舞台といった感がありました。






この頃、朝廷が幕府を飛び越して諸藩に直接指令し、京都に上らせて国事周旋に当たらせて
いたため、幕府として大名の統治はすべて幕府に委任する、という約束を取り付けることが
今回の上洛の最大目的であったのですが朝廷からNoという返事しか得られず目的は遂げられません。
朝廷も長州藩寄りの過激攘夷派で固められていて強気です。






この上洛を機に京の治安確立のため会津藩主・松平容保(かたもり)を京都守護職に任じ、
会津藩士1000人を常駐させ、新撰組がその支配下にはいったのもこの時期からでした。


松平容保
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http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/208746/m0u/






幕府もこれら一連のデモンストレーションが長州藩であることはわかっていましたから
長州藩を目の敵にし始め、さかんに宮廷工作を行い、親幕派の親王や公家をあつめ、長州藩の戦略に
対抗しようとやっきになりました。





これに同調したのがなんと薩摩藩です。





後に倒幕の主体となる薩摩藩がこの時点では長州藩に敵愾心を抱いていたのでした。






このまま長州藩中心に政局が推移していくことに強い「嫉妬心」があったのです。






薩摩の大久保利通も西郷隆盛も腹の中では幕藩体制の変革の必要性を考慮してはいました
が、長州藩のみが先行することに不快感を持っていたのですね。






微妙なところですが人間のやることとですから案外にそんな感情が意思決定の底辺に
揺蕩っているものなのでしょう。
この「嫉妬心」と「不快感」がこの年の夏の政変につながっていきます。






そんな幕府側の裏工作が秘密裡に着々と進む中・・・






「いっそ将軍を殺してしまおう」晋作が唐突に言い出します。



将軍家茂
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5...






そして21人の決死隊を組織します。






晋作に言わせればこんなデモンストレーションなどまどろっこしくて見ていられない・・・
そんな気分もあったでしょう。
とにかく長幕戦争を引き起こしてしまうにかぎる、と晋作は考えています。






将軍・家茂が御所を退出して、御門から鷹司(たかつかさ)関白の屋敷までの間が一番
警備が手薄な場所でしたからそこで襲い掛かる手はずでした。
しかし仲間のうち大楽源太郎と堤松右衛門が些細なしくじりをしたことでやむなく
中止せざるを得なくなります。





堤松右衛門はこの責任を取り自ら切腹して果てています。






いやはや昔の武士というのは命を絶って責任を取っていたんですね。
「ごめんなさい」じゃ済まないわけなんですねぇ。
ホント厳しいものがありますよね。






ここでも晋作、思い通りには事が運びません。
イライラはつのり、酒に溺れ自暴自棄な日々を過ごします。






人間どんなことであれ極まり尽くすとプツンと切れてしまいます。






我らが晋作、なんと出家してしまいます。
名を西行に模して「東行」と名乗ります。






上司であり、良き理解者である周布政之助が止めようにも止められません。






晋作は10年の十年の賜暇(しか)をもらいたい、と周布にお願いします。
十年間、藩を離れて世捨て人の生活がしたい、というわけです。





上海渡航以来、晋作の胸の中にある革命思想が理解されず、何とか幕府と長州を
無理やり戦争に引きずり込みたい一心で命がけの大騒ぎを何度か試みましたがどれも
思い通りにならず、イライラも鬱々も頂点に達してプッツンしてしまいました。
そこで皆に止められる前に勝手に頭を丸めてしまったのです。





実は藩士の世界では髷(まげ)を勝手に切ることは御法度です。
キチンと事前に申し入れをして、藩庁から許可をもらわなくてはならないのです。
晋作はここでも勝手を通していますね。





そして政務役たる周布政之助が許してしまっていますね。
長州藩は晋作のわがままをどこまでも許しています。
周布も藩庁も晋作を有為の人材と認めて、今は勝手気ままを許しています。
他藩では到底考えられないことなのです。






藩は付添人を付けて晋作を萩まで送り返します。
晋作、4月10日、萩に帰り着きます。





家には戻らず萩郊外の小さな家に住み着いて一人気ままに暮らし始めます。
妻のまさはどう感じていたのでしょうね?





しかし晋作の実家はしっかりした上士の家ですから何も言わなくても妻のまさや下男の
方たちが生活必需品を届けたりしてます。
今だったら当面の生活費とか考える始末になると思いますが、晋作は要するにいいとこの
お坊ちゃんですからそんな心配なんかしないわけです。






しかし十年の賜暇とは言ってますが、時勢は晋作を三か月と勝手気ままにはさせては
くれません。






そうです。
5月10日に長州藩はついに攘夷を藩ぐるみで実行してしまうからです。





詳しくは後の項で書きますが、外国艦隊に結局完膚なきまでに負けてしまい、藩は急きょ
晋作を馬関防衛の責任者として引っ張り出すからです。






さてここで周布政之助について一言述べておきたいと思います。



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http://bakumatsu.org/men/view/65






周布政之助、この当時41歳。長州藩の政務役として活躍していた人です。





晋作や玄瑞を弟のように可愛がり、理解もし、また信頼されてもいました。
晋作の戦略家としての天才的才能を見抜いたのは松陰と周布だったでしょう。
それだけに周布は晋作を大事にしてきています。





ある意味、晋作を育てたのは松陰と周布政之助かも知れません。





さてこの周布ですが、彼にとって「攘夷」は外国い対する政治的手段であって、つまる
ところ「攘夷」は「対等開国」のための「攘夷」であったのです。
この頃には玄瑞も同様に考えていましたから実は裏でとんでもないことを実行していました。
将来の開国に備えて五人の藩士を英国ロンドンに送り込んでいるのです。
5月12日のことです。





これは「攘夷、攘夷」で狂ったように熱狂している者たちに知れたら大変な騒ぎになりますから
秘密裡に行われました。





このロンドン留学に井上聞多、伊藤俊介がはいっています。
この二人、外国の文明に接して驚き、ロンドンの新聞で外国の連合艦隊が下関を襲う
予定であることを知るや急遽日本に帰り着くことになります。





ま、ここでは周布政之助という人物の慧眼が理解されればよいことなので、とりあえず
ここまで。





次回からカテゴリーは「晋作登場」となります。
いよいよ歴史に晋作登場の舞台が出来上がってきます。

高杉晋作 御成橋事件 1863年 [上海渡航以後 ]

高杉晋作 上海渡航以後 1863年






英国公使館焼き討ち事件は幕閣を驚かせ、世間に伝わっていきました。
ですが晋作が期待したように幕府と外国との不仲にまでは発展しなかったのですね。






英国公使から犯人逮捕を強く要請された幕府は表向きだけの探索に終始しました。
建設費用が無駄に吹っ飛んだ・・・というだけのことになりました。






もしこの時、幕府が長州藩に対して断固たる態度で臨んでいたら恐幕家の重臣らに
よって晋作ら過激分子はことごとく切腹させられ、翌年以降の一藩あげての攘夷狂い
はなかったことでしょう。






さて焼き討ち事件に参加した者もしなかった者も事件後ほどなく京や萩に向かって
蒸発するように消えてしまいました。






晋作、おもしろくありません。






あれだけの事をしてのけたのに大騒動にもならず、肩透かしを喰らったような気分
です。





高杉晋作
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http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_07.html






仲間が江戸から消えていく中、「俺は江戸で死ぬんだー」と言って晋作は居残って
いました。
この頃の晋作は事が思うようにいかず超イライラ状態で酒ばかり飲んでいました。






この頃、盟友玄瑞は英国公使館焼き討ちの後、信州松本に佐久間象山を訪ねる旅に
出ました。
佐久間象山を長州藩に招かんがためです。
この申出では象山に断られてしまいますが。






この旅の途中で玄瑞は晋作に手紙で師・松陰の改葬の件を頼んでいます。






玄瑞は「廻らん条議」で主張しているように班内を尊王攘夷で一本化するために
亡き松陰を尊王攘夷のシンボルとして神格化しようと考えました。
そのためにはいくらなんでも松陰の遺骸が小塚原刑場に打ち捨てられているのは
よろしくない・・・というわけで幕府や朝廷に働きかけて松陰の罪を許し、改葬が
許可されるように大赦令を出させていました。






すごいですねぇ、玄瑞もやりますね。
もちろん長州藩世子・元徳を通じて朝廷に働きかけ、幕府に圧力をかけていったわけです。







年も改まって1863年(文久3年)正月、晋作はこの改葬に事寄せてまたまた一計を案じます。
白昼堂々お江戸のど真ん中を練り歩いて改葬してやれ・・・というのです。






幸い数人の過激分子が桜田藩邸に残っていたので彼等を仲間に引き入れました。







文久3年正月5日の朝、晋作は騎馬に乗って桜田藩邸を出門。






その姿はというと黒塗り金の定紋入りの陣笠、白緒で顎を締め、陣羽織という戦装束。
大身の皆朱の槍を中間に持たせています。
もし松陰の改葬を幕吏がさえぎるなら一議もなくこの槍で突き伏せる気でいます。
そうなったらこれまた大事になるだろうと、晋作、心中ほくそ笑んでいます。






午前10時頃、小塚原に到着。
遺体を大甕(おおがめ)に収めると世田谷村を目指して行進して行きます。






途中、上野の山下の盛り場にさしかかります。
おりからの正月で雑踏していました。
皆どよめいて道を開けます。







前方に忍川の細流が見えてきます。
この細流には三つの橋が架かっており、俗に三枚橋と呼ばれていました。






その真ん中の橋を御成橋といい、将軍が寛永寺にお参りする時に将軍のみが使用する
橋で番小屋まで設けられ、常時、直参の士が橋役人として詰めています。
将軍以外の者が渡れば首が飛びます。




上野寛永寺
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http://takemovies.blog.so-net.ne.jp/2013-02-07-1






晋作、この橋を確認するや大声を上げて行列を叱咤します。
「あの橋を渡れ」






橋板に馬蹄を乗り上げるや番士が飛んできて両手を広げて制止します。
晋作、番士に槍の穂先を向けて「どけっ」と一喝。
番士も通したとあったら切腹ものですから必死で「さがれ、さがれ」と喚きたて
食い下がります。






そうこうするうちに見物人が数百人にもなったところで晋作、おもしろいことを
言います。






「橋番、さがれ。勅命である」







橋番も必死で食い下がります。
「なにが勅命だ。わけを言え、わけを」






晋作、またも大声で言い返します。
「わけは家茂にきけ」
晋作、槍で番士を追い回しながらついに橋を渡り切ってしまいます。






これが有名な御成橋事件です。






御成橋を将軍以外の人間が渡ったのも江戸始まって以来なら、将軍の名を白昼公然と
呼び捨てにしたのもこれが初めてのことでした。
幕府の権威を踏みにじったわけですね。







晋作、橋番に向かって「長州浪人高杉晋作」と高らかに名乗っています。






こうすることで長州藩を幕府の敵という立場に追い込み、藩論を統一して長州藩が
独立割拠して対幕府戦争を起こす方向性をつけたかったのでした。
幕長戦争になれば長州が勝つという確信が晋作にはあったのです。






さてこの事件に対する幕府の反応はというと、幕府は不問に付し、長州藩に形式的な
苦情さえ言ってきませんでした。
藩論定まらぬ長州藩をわざわざ敵にしたくはない、という政治的配慮でした。







我らが晋作またまた肩透かしを食わされてしまい、ご機嫌ななめです。


高杉晋作 英国公使館焼き打ち事件 [上海渡航以後 ]

高杉晋作 上海渡航以後 1862年後半 英国公使館焼き打ち 12月12日





海外の事情を見聞した途端、開国論者に転向するのが普通でした。






晋作自身も内心は「攘夷なんて言ってる場合ではないぞ」と思うのでした。




高杉晋作
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http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_07.html




しかし徳川幕府のもとで行う開国や貿易は徳川家のみが得をし、諸藩は
疲弊するのみになります。
幕府は貿易の自由を諸藩に与えていないからです。





だから真に開国するためには今ある攘夷の熱狂をさらに煽って倒幕を
視野に入れた攘夷運動、つまり長州藩が幕府から独立割拠してしまおう、
と晋作は考えていました。





西洋式軍備の充実と貿易による富の蓄積を長州藩独自で行い、同調してくる
諸藩があれば連合して幕府と戦い、これを倒す・・・。





こんな感じの考えを持っていました。





上海という外国の地に立って日本を振り返った時、いかに幕府が弱いものか
実感した晋作にとって倒幕は難しいもいのではなくなっていました。






既に師・松蔭の考え方とは晋作は異なってきています。






松蔭もそうですし、玄瑞もなんですが、あくまで幕府を巻き込んだ攘夷を
理想としていました。
そのために玄瑞は攘夷派の公家を裏で操って幕府の尻を叩いているわけです。






その様子を見て晋作は言います。「ご苦労なこった。金の無駄遣いさ」






しかし松蔭が「草莽崛起論」で言っているように実際には幕府は攘夷の
役には立たないのですね。






さて晋作たち、世田谷村若林の長州藩別邸で禁足中に御楯組(みたてぐみ)と
いう攘夷決行の決死集団を作りましたね。






なんと禁足が解かれるや直ぐに次の計画の実行に移ります。
天下を驚倒させる大騒動を起こして、何としても幕府に一泡吹かせてやる
つもりです。






品川にある御殿山に英国公使館が建設されており、完成間近でした。
「これを焼いてしまおう」・・・というのです。






今度は秘密が漏れぬように慎重に準備を進めました。

決行メンバーは12人。

焼玉という火災を発生させる軍用の放火材も用意しました。






12日深夜、風雨の強い中、メンバーは英国公使館に侵入します。
そしてまんまと火を付け、遁走します。






晋作と玄瑞は品川の妓楼に上がり、酒を飲みながら御殿山で燃える炎を
眺めていました。
英国公使館はこうして全焼しました。






さてこの御殿山という土地について少々曰く(いわく)があります。






開国以来幕府と外国を悩ませたのは頻発する尊皇攘夷派による外国人殺傷
でした。

その結果、各国の公使たちは安全に居住できる敷地の提供を要求し、結局、
北品川の御殿山が選ばれました。

最初に英国公使館が、次いでオランダ、アメリカの公使館が建設される予定
でした。






御殿山というところは上野と並び花見の名所で、かつ品川宿や江戸湾を見下ろす
要衝でしたから、そんな最高の場所を外国人に明け渡す事に官民あげて
大反対の声がありました。





御殿山花見(品川全図)-2.jpg
http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_e/%E8%8A%9D%...


現在の御殿山 高級住宅街っぽいですね。
mp_56.jpg
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page00000080...






幕府は公使館に押し切られる形で強引に工事に着工。






建設費約4万ドル(8万両相当)を幕府が負担した豪華華麗な2階建ての洋館
でした。






曰くつきの話とは実はこれからなんです。






御殿山を外国公使館の用地とすることに攘夷論者だったあの孝明天皇が反対を
唱え、その旨勅使を通じて幕府に伝えてきました。






さすがに天皇の反対を無視することはできず、幕府外国奉行が英国公使代理の
ニール氏を訪ね、勅命のため御殿山の公使館用地を放棄してくれるよう
申込みますが、ニール氏は用地放棄も工事中止もきっぱり断ってきます。






幕府は朝廷と諸外国の間で板挟みになった格好になりました。






その話し合いの3日後、そうとは知らず、晋作たちによる英国公使館焼き打ち
が行われたのです。
完成直前の公使館を全焼させてしまいました。







テロの再発を恐れる外国公使たちは御殿山を公使館用地としたいとは二度と
言わなくなりました。






怒るニール氏は事件の真相解明を幕府に強く要求しましたが、捜査すると返事は
したものの真剣にはやっていません。

長州あたりかも知れないとの検討はついていたようですが、確証もなく、
もしまた幕府側の人間が犯人であったなどということにでもなればとんだ
藪蛇(やぶへび)になってしまいます。

ともあれ晋作たちは期せずして幕府の窮地を救った形になりました。







外国公使館側の用地指定はかなり真剣だったようです。






それというのも開国以来がおこくじんを狙ったテロが頻発していたからでした。
それらの詳細はウィキペディアの「幕末の外国人襲撃・殺害事件」を参照されると
よくわかるかとおもいますが、せっかくですからこの項でも記載しておきます。


1 安政3年(1856年)  ハリス襲撃未遂事件


2 安政6年(1859年)  ロシア海軍軍人殺害事件
              フランス領事館従僕殺害事件


3 安政7年(1860年)  日本人通訳殺害事件
              フランス公使館放火事件
              オランダ船長殺害事件


4 万延元年(1860年)  フランス公使従僕傷害事件
               マイケル・モース事件
               ヒュースケン殺害事件


5 文久元年(1861年)  第一次東禅寺事件


6 文久2年(1862年)  第二次東禅寺事件
              生麦事件
               英国公使館焼打ち事件


7 文久3年(1863年)  井土ヶ谷事件


8 元治元年(1864年) 鎌倉事件

9 慶応2年(1866年)  鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
               ハリー・パークス恫喝事件


10 慶応3年(1867年)  アーネスト・サトウ襲撃事件
               英国水兵殺害事件
               ヘンリー・スネル襲撃事件
               英国水兵襲撃事件


11 慶応4年(1868年)  神戸事件
               堺事件
               パークス襲撃事件




ざっと24個ありますね。
外国人にしてみれば危なっかしい国だったろうと思います。
幕府の弱腰を別にすれば識字率の高さ、個人的教養の高さ、礼儀品性の高さ
どれをとっても他のアジア諸国とは比べ物にならないほどに優れているこの
国で唯一彼らが眉をひそめるのが日本刀による襲撃だったんですね。






ウィキペディアの「幕末の外国人襲撃・殺害事件」はこちらからどうぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A5%B2%E6%92%83%E3%83%BB%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

高杉晋作 外国公使暗殺未遂事件 [上海渡航以後 ]

高杉晋作 上海渡航以後 1862年後半 外国公使暗殺未遂事件 11月13日






上海で実地に西洋列強の富と強さを見聞した晋作は強烈な危機感を
抱きます。
この危機感が父・小忠太への思いを振り切り、行動の人へと彼を駆
り立てていくのです。






高杉晋作
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http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_07.html






以前の晋作は議論には加わるものの思い切った行動が取れませんで
した。
「口だけの男」・・・と陰口もあったりしました。






身分の軽い、藩への忠誠心もほとんど無く、親への忠義心も薄い
軽輩出身者には理解できない束縛が晋作を縛り付けていました。






今 厩舎から飛び出したこの晋作という奔馬は周囲を引きずり回す
大仕事を次々に行っていきます。







とにかく我らが晋作、超過激になっていきます。






長州藩自体が長井雅楽の「航海遠略策」を引っ込め、つまり公武合体
を引っ込め、180°方針転換して尊皇攘夷に藩論を一変させたことは
世間の攘夷派から失笑を買っていました。






それに「攘夷、攘夷」と叫ぶだけで実際には水戸藩のような実行が一つ
もない長州攘夷派に期待倒れの声も聞かれます。






それに8月21日には、長州藩が対抗意識を抱いている薩摩藩が、神奈川
生麦村において島津久光の行列を横切った英国人を斬るという、いわゆる
生麦事件を起こし、尊皇攘夷派の喝采を浴びていました。




生麦事件
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http://www.townnews.co.jp/0103/2012/08/30/155903.h...






もっともこの事件は公武合体派の島津久光の思惑とは無関係の単なる
アクシデントだったのですが、長州攘夷派に対する悪評とは対照的で
ありました。






「ここは一つ、夷人を斬るなり、事を起こさねばならない」・・・と、 晋作は考えます。






そこで晋作、アメリカ公使の白昼暗殺計画を立て、神奈川宿の下田屋に
集合します。
公使らが11月13日に横浜金沢にピクニックに出かける情報を入手したから
でした。






しかしこの計画は久坂玄瑞が協力を求めた土佐藩の武市半平太が前土佐藩主・
山内容堂に知らせてしまったために容堂公から長州藩主世子・元徳に伝わり、
世子と勅使の使者が神奈川宿までやってきて晋作たちに計画の中止を求めた
ため、この計画は頓挫してしまいます。




山内容堂
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http://www.geocities.jp/hmtaka_ki/jinbutu.html






アメリカ公使をもし斬っていたらどうなっていたことでしょうか。






この年の1月に坂下門外の変で水戸浪士に襲われた老中・安藤信正はこう
つぶやいています。
「老中の一人や二人斬られてもどうということはないが、外国公使が斬られ
れば国はほろびる」







実際、そんな事態になれば幕府の出方次第では外国による軍事占領が行われる
可能性が大きいわけです。
その外国が複数であれば日本を分割してしまいかねないわけです。







晋作は内陸戦で結局は勝てる、と踏んでいるのですが、日本全土で内陸戦と
なれば全体の戦いを掌握し、指導していく緻密な組織がなければそもそも
無理ですよね。






この点、我らが晋作、どう考えていたのでしょうか?







全国的規模の攘夷戦争対策委員会みたいな組織がなければやられるだけだと
思いますが。






もしこの暗殺未遂計画が実行されていたら幕府は目ん玉飛び出るような賠償金を
支払って済ませたであろうとは思います。
幕府に対する揺さぶりとしては効果は大きかったでしょうね。







一同揃って蒲田の梅屋敷に戻ったところ、そこには世子・元徳が待っていて
人情味ある説諭を受け一同感涙します。






かれらには「一同禁足」という軽い刑が課され世田谷村の若林というところに
あった毛利家の別邸でしばらく禁足することになります。






※三軒茶屋と高井戸を結ぶ単線の電車・世田谷線というのがあります。
この路線に松蔭神社前という駅があって、そこから徒歩3分程で松蔭神社があります。
清潔感のある、感じのいい神社です。
この神社の周辺域が毛利家別邸の地所だったのでは、と思います。
今は静かな住宅街です。






この禁足中に晋作は御楯組(みたてぐみ)という攘夷決行の決死団をつくります。
大将はもちろん晋作。
副将は玄瑞。
他のメンバーはほとんどが松下村塾出身者で占められていました。
他藩の者から計画が漏れたことに鑑み、長州藩士のみで結成した結社です。






晋作、次のプランを練り出します。







以下、次項にて。

















高杉晋作 上海渡航 1862年 [上海渡航以後 ]

高杉晋作 上海渡航以後 1862年





なぜ高杉晋作において上海渡航前と渡航以降のカテゴリー分けをしたかといいますと、
前と後で晋作は行動が全く違うのです。

渡航前の晋作は厩舎で繋がれた暴れ馬のような存在でしたが、渡航後は厩舎から飛び出した
暴れ馬のような存在に変わるんですね。

つまり「行動の人」にいよいよなっていくわけです。



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http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_07.html





さてさて我らが晋作、上海行きの命を受けると直ぐに江戸をたち、
長崎に向かいます。
長崎から幕府が購入したオランダ帆船に乗って上海に向かいます。






ま、とにかく昔の旅は大変でしたね。
羽田から2時間ほどで行ける現代とは大違いです。






1862年(文久2年)4月29日 長崎を出航
1862年(文久2年)5月6日 上海到着
1862年(文久2年)7月5日 上海を出航 長崎へ。
1862年(文久2年)8月20日 長崎着






おわかりのように約2ヶ月の滞在でした。

この2ヶ月で晋作は何を見、何を感じたのでしょうか?






上海到着冶に晋作がまず目にしたのは大きな港に停泊するおびただしい
数の黒船の群れでした。
そのマストの数の凄まじさはまるで森林のように見えました。






陸上では銀行、商館、領事館などがびっしり並んでまるで城郭のごとき有様
で西洋の文明と富の豪勢さを見せつけているかのようでした。






見たこともない景色に晋作といえどもびっくりしたことでしょう。
日本で見る風景とは大違いです。





晋作、この旅で二人の友人ができます。
佐賀藩の中牟田倉之助と薩摩藩の五代才助です。




中牟田倉之助は後に日本海軍創設に関わることになる英才で、英語も堪能
でした。



晋作は上海の街を連日のように歩き、いろいろな店を見て回り、数学や
科学技術についての英書など購入し、外国領事館を訪ね、中牟田の通訳の
もとで談論したり、現地の中国人と筆談したりして情報収集に余念なく
過ごします。





また、ある時、イギリス兵が守る砲台を訪ね、アームストロング砲を実地に
見ています。



薩摩藩の五代才助は経済通で、上海税関の関税を調べたり、英米仏人の商売
の仕方をつぶさに調べていました。
また、この五代から、薩摩藩はすでに蒸気船一隻を購入しており、この上海
あたりで既に密貿易を行い、大きな利益を上げており、ゆくゆく欧米にまで
この蒸気船を駆って渡る計画のあることを教えられます。






晋作、いかに長州が佐賀、薩摩に後れを取っているかを痛感します。





アヘン戦争で列強各国に敗れた中国は上海を開港しました。



1842年ですから晋作がまだ3歳の時ですね。



貿易は白人の手に握られ、英米仏は「租界」という居住区をつくり、
ヨーロッパ風の都会を作り出しました。



そこでは白人が警察権と行政権を握り、シナ人は奴隷のように扱われ
ていました。





シナ人を見て晋作は思います。「おまえたちは何故戦わないのか?」






※アヘン戦争  1840年から約2年間の中国(清)と英国の間で行われた
           戦争です。
           英国によるアヘン密貿易に対する中国側の対策に激怒し
           た英国側から仕掛けた戦争です。
           中国は英国の武力の前に完敗。


           1842年南京条約を結ばされます。
           多額の賠償金に加え、香港島の100年割譲、5港の開港
           (上海、寧波、福州、か門、広州)、公行の廃止


           公行というのは清の貿易業者の組合のことですね。
           この廃止により英国は誰とでも自由に取引ができるよう 
           になりました。
           他にも英国に断然有利な条約を結ばされました。




※太平天国の乱 1851年~1864年にかけて起こった中国史上、未曾有の
           農民一揆です。
           腐敗した清朝政府の打倒を掲げて、洪秀全(こうしゅうぜん)を首謀者と
           する「太平天国の乱」です。



           太平天国軍は1853年に一時、南京を陥落させたりしますが、
           指導部の分裂により1864年には壊滅します。
           晋作が上海にやって来た頃も清朝は列強の手を借りて太平天国
           軍と戦っている最中でした。






また晋作、こうも思います。






「日本もいずれこうなる運命の瀬戸際に来ている」


本当は攘夷なんて言っている場合ではない。列強と百戦すれば百敗する。」

         
「開国し、貿易を行い、国を富ませ、軍備を充実させていかなければ
 いずれ上海の二の舞になる。」


「日本そのものの体質を一変させなければ列強の食いものにされてしまう」


「開国し、貿易をするにしても幕府のみが利益を吸い取るのでは意味がない」


「幕府は不要である」


「幕府打倒のためには革命が必要である」


「革命には狂気が必要である」


「今ある攘夷という狂気を盛り上げ、沸騰させ、それをもって2,3の大名
 を連合させ、その勢いで幕府を倒す」


などなど・・・。





国内にいる時は徳川幕府という存在は天地そのものであり、幕府を倒すなど
夢物語のようにしか思えなかったことが、外国に来て、日本を振り返った時、
江戸の幕府というものの存在が小さなものに見えてきたのです。





またこのようにも考えたようです。






「あえて攘夷を果敢に行い、外国との戦争に持ち込んでも構わない」


「なぜなら最終的には国内戦において勝つからである」


「そのためには長州藩を攘夷戦で火だるまにしても構わない」


「天皇家を担ぎ出し、日本に公的政府をつくり、統一国家にして、
 それから開国だ」






上海というヨーロッパの出店を一目見ればもはや開国は当たり前の事であり
ました。しかしその常識からは革命のエネルギーは起こっては来ない・・・と
晋作は考えるのです。


日本の政治体制が一新されなければ開国は徳川家を潤すだけのものでしか
ない。


まず攘夷というエネルギーを利用して倒幕という革命を起こすことが先決であ
る、と考えたのです。



攘夷運動のために対外戦争を行っても構わない・・・こう考えたのです。






あえて攘夷。 あえて倒幕。 あえて戦争。





此処に至って晋作、自分の進むべき道を確信しました。

革命家としての人生を選択したのです。






※この時点では攘夷運動というのは「夷人斬るべし」「破約攘夷」
「鎖国継続」という極めて単純、かつ主に感情と誤解による攘夷論
 でした。


 幕府の尻を叩いて攘夷を実行させようという考えでしかありません。






 その一方で長井雅楽の「航海遠略策」などにみられる公武合体論が
 対抗していました。





 この年1862(文久2年)1月15日 公武合体を進める老中・安藤信正が 水戸浪士によって襲撃される事件が勃発しました。




 これにより幕府の権威はますます堕ちていきます。





 また、公武合体の実を上げるべく1862(文久2年)2月に 和宮江戸降嫁 が実現されています。






 長州藩はというと長井雅楽の「航海遠略策」路線により、朝廷と幕府
 の取り持ちに一生懸命になっていた時期です。




 
 かたや長州の過激攘夷書生たち、つまり松下村塾系の書生たちは玄瑞
 を中心に長井雅楽排斥運動を必死でやっていました。






 この排斥運動が功を奏し、1862(文久2年)6月5日長井雅楽は失脚、
翌年1863年(文久3年)2月6日切腹させられてしまいます。






急進的な尊皇攘夷派が台頭した長州藩は1862(文久2年)7月24日,
「朝廷の趣旨に沿い、攘夷を断行する」方針を発表。  開港から攘夷への180°の方向転換を行いました。





 また1862(文久2年)8月2日 京において玄瑞が長州藩の今後の進路を
 示した「廻瀾条議(かいらんじょうぎ)」と題した論策を発表、藩主に提出
 して、以降、長州藩は「廻瀾条議」に沿って、徹底した尊皇攘夷路線を
 固めていくことになります。





 さらに朝廷も長州藩に促される形で攘夷の方針を定めます。
 朝廷内の公武合体派は瞬く間に影を潜め、長州藩を先頭にした尊皇攘夷派
 の時代の幕が開きます。





 そんな中に、晋作は帰国したのです。




※「廻瀾条議」 安政5年に幕府が締結した諸外国との条約を断固否認し、幕府の罪を糾明し、
 政治の中心に朝廷を押し出そう、というもの。
 長井雅楽の極刑を望むとともに吉田松陰の顕彰も書かれています。

  



長崎に帰国した晋作はオランダの蒸気船を2万両で独断契約しています。





これを知った藩は大騒ぎですが政務役の周布がその契約を認める発言を
することで晋作を救っています。
もっともこの契約はオランダ側から破棄されてしまいご破算になります。
晋作にすれば一刻も早く西洋式軍艦や軍備を整えたい一心で行った事でした。






江戸へ戻る途中、京に寄り、藩主・毛利敬親(たかちか)に会い、上海での
視察報告とともに長州藩の独立割拠を説き、軍備の刷新等を建言しますが、
聞き入れられません。






晋作の言い分 



幕府の尻を叩くために湯水のごとく大金をばら撒いて京の
公家たちに周旋している場合ではない。


一刻も早く藩地に拠点を移して、洋式銃や軍艦を購入して軍備を充実させ、
軍制改革を行い、藩一丸となって、朝廷も幕府も頼らず攘夷を実行すべき
である。






8月20日江戸に戻り、世子・毛利元徳(もとのり)らに同様の趣旨の言を行い
ますが、やはり受け入れられません。





言い分が聞き届けられぬと知った晋作は・・・
8月27日脱藩する旨の置き手紙をして江戸藩邸から逐電します。





藩を離れ、自由に活動したかったのでしょう。
藩が自分の意見に耳を貸さない以上、自分の力で革命運動をしていこう、と
思ったのでしょう。
思い切りの良さは天下一品です。






これまでの晋作は攘夷運動の狂気の中に飛び込もうとしては父・小忠太の
引き止めに素直に従ってきました。





脱藩の際して父・小忠太に親不孝をするお詫びと決意の手紙を送っています。






藩邸を飛び出した晋作が向かったのは水戸の加藤有隣を訪ねます。





中国衰亡の現状や日本にせまりつつある危機を懸命に説き、自分の攘夷活動
に協力してくれるよう頼み込みます。





有隣は晋作の企てには賛成できず、思い止まるよう説得します。





藩の中枢に関われる資格を持つ晋作が藩を離れて活動することに反対もしました。





有隣は密かに江戸の桂小五郎のもとに手紙を送り、晋作の迎えをよこすよう
頼んでいます。






9月10日迎えに来た坂上忠介とともに江戸藩邸に戻ります。
さいわい桂小五郎の周旋もあって脱藩罪にはならずに済んでいます。





さてこれ以降、晋作は玄瑞らとともに過激攘夷を実行していく「実行の人」 になります。






晋作の実行した数々の事件は次の項でご紹介します。





ご精読ありがとうございました。


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