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高杉晋作 上海渡航前 1861年前半 晋作の迷い [上海渡航前]

高杉晋作 上海渡航前 1861年前半




昨年1860年の秋 試撃行から萩に戻った晋作には明倫館舎長、都講という役職が
待っていました。



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http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_07.html





晋作これよりしばらくは大人しい生活を送ります。





明倫館で学生たちの面倒をみたり、撃剣の稽古をしたり、読書に力を入れたりと
「高杉のおぼっちゃま」らしいまたも静かな毎日が続きました。






明けて1861年3月またも異例の抜擢が晋作に下されました。
「世子のお小姓」に選ばれたのです。





世子とはやがて次の藩主になる人物をいいます。
この場合、現藩主・毛利敬親(たかちか)の養子・毛利元徳(もとのり)を指します。
元徳はこの年23歳。晋作と同い年です。
晋作の父・小忠太は元徳の教育係も勤めてきていますから、世子・元徳にすれば
そのせがれの晋作は最初から親近感があったやも知れませんね。






世子の小姓役というのは一種独特なお役目になります。
世子の衣食住のお世話はもとより、藩士たちとの連絡、お取次といった役回りです。
やがてその世子が藩主になった暁には、その世話役であった小姓たちは藩の重役に
なっていくんですね。
つまり将来が約束されたような名誉ある職務だったわけです。
晋作、何の苦労もなく一番美味しいところをあてがわれていますね。






この頃の長州藩の政権を担っていたのは周布政之助を首領とする改革派だったことも
抜擢の原因の一つなのかな、と私は思っていますが。






この下命があった時は世子・元徳は江戸におりまして晋作がお小姓として元徳に
挨拶するのは8月過ぎです。






この頃の我らが晋作、自分の進むべき道について熟考しています。





彼は他の松下村塾の門下生と違いれっきとした長州藩の名門の子弟であり、大人しく
していればそれなりに特権階級の人生をつつがなく送れるはずなのです。
また、それも良いのではないか、とも晋作は考えたりもしました。






自分の中に潜む「狂」の要素を懸命に抑え、俗世間と調和して生きることに人間と
しての福福しさを見出していこうか、と静かな日常の中で考えていました。





師・松陰の意志を継ぐ者は自分しかいない、と思い極めていた晋作にして例外的な
期間でした。





「人には持って生まれた環境や天分があり、天命があるものだ。
にもかかわらず血気にはやって風雲の中に飛び出していくことが真の強者の道に
なるのだろうか?」・・・などなど晋作、考えていたようです。





高杉家の嫡子として長州藩につつがなくご奉公していく自分の生き方もまた良しと
する考えに傾いてきていました。
師・松陰も晋作については先ずはご奉公第一にするがよろしかろう、とアドバイス
していましたね。






しかし、しかし、運命の歯車は晋作を風雲の中へと呼び寄せていきます。






同年7月 世子のいる江戸へ行くよう藩命が下ったのでした。






実はこの藩命、江戸にいる久坂玄瑞ら松下村塾系のメンバーらが藩に画策して晋作を
江戸に呼び寄せたものでした。






彼らは晋作を自分たちのリーダーとして迎え入れたかったのです。






同年8月 晋作、江戸に到着。
仲間たちの歓呼の声に出迎えられます。
この時、晋作「これで俺の人生は決まった」と確信します。
もはや安易な人生は捨て、攘夷運動に身を投じていく覚悟を再確認したのでした。






次回は上海渡航直前の模様をお伝えします。




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