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高杉晋作と試撃行、横井小楠との出会い [上海渡航前]

 高杉晋作と試撃行、横井小楠との出会い 1860年(万延元年)




さてさて我らが晋作、この時期、何をしたらいいのか分からず心の中は
悶々としていました。
何か、理由もなかく、暴れ出したいような、どこかに飛び出していきたい
ような、休火山がその地下でドロドロとマグマが赤く渦巻きながらその
飛び出し口が分からず轟々と煮えたぎっているような精神状態でした。






そんなある日 晋作、突拍子もないことを思いつきます。
藩では最近、海軍教授所なるものを新設しており、そこに入所して軍艦の
操練を学んでみよう、と考えたのでした。






そのことを父に相談したところ意外にも簡単に同意してもらえました。
父・小忠太にすれば過激書生たちと付き合われるよりマシという程度の
ことです。





この当時、長州藩は全長25メートル、三本マスト、乗組員17名という小型
洋式木造軍艦・丙辰丸(へいしんまる)を製造して、保有していました。






幕府は黒船来航を機に二百数十年にわたる大船建造禁止令を解いていました。
これを期に藩では海防準備のため建造に当たったのでした。






航海練習船としてこの丙辰丸を作ったのですが、この当時ではこの規模の船
でさえ幕府以外は持ってはいませんでした。





しかもこの西洋式木造帆船はオランダの造船本をたよりに日本人だけで作り
上げたそうです。





しかもしかも、しかもですね、これより数年後には宇和島藩、佐賀藩そして
薩摩藩で国産の蒸気船を作ってしまっているんです。
日本人の能力の高さを示す一例とされています。
原理がわかれば日本人は直ぐに高度な技術開発ができてしまう民族であるん
です。
技術立国日本の雛形を見る思いです。
日本人ってすごいですよね。






さて話を戻しますが、晋作が父・小忠太に海軍教授所の入所を相談したその
日、1860年(万延元年)3月3日は江戸で大変な事件が勃発していました。






そうです、水戸浪士による大老・井伊直弼暗殺の桜田門外の変が起きていま
した。
もちろん、二人は知る由もありません。





001.jpg
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00...


joseph2_2.jpg
http://yae.taigadrama.org/main/joseph2.html







※余談ですがレンタルビデオで「桜田門外の変」を借りて観ることを
 おすすめします。
 関鉄之助という水戸藩士を中心に桜田門外の変の実行と、その後の
 薩摩藩側の事情の激変による思惑の失敗によって全員がたどる悲惨な
 末路が描かれていました。
 大変よくできている作品です。
 長谷川京子さんが若くてすごく綺麗です。
 主役は関鉄之助役の大沢たかおさんです。






海軍教授所に入所した晋作ですが、期待に反して全く面白くありません。
かと言って面白くないからやめるわけにもいきません。






そうこうする内、丙辰丸による江戸への航海実習が行われることになり、晋作
手のひらを返したように喜びます。
藩命で堂々と江戸に行けるのです。






この時には小忠太らの耳にも江戸での大事件の様子が伝わっています。
小忠太にしてみればそんな騒ぎの真っ只中に晋作が行ってしまったら、江戸に
いる松陰門下の書生たちと一緒になって何をしでかすやらわかったものでは
ないと、心配しますが、一応藩命なので口出しはできません。
晋作、意気揚々と出航していきます。4月12日のことでした。



高杉小忠太 晩年
takasugi-kocyuta.jpg
http://sinsaku.access21-co.jp/11cyousyu.html


さてこの航海、江戸にたどり着くまで2ヶ月も掛かっています。
我らが晋作、大丈夫だったのか、心配ですよね。






実は晋作、船酔いでまるで廃人のようになり、船では全くの役立たずでした。
江戸に着き、陸に上がるや、船長で軍艦教授所の責任者である松島剛蔵に
教授所をやめることを一方的に宣言してしまいます。
こんな事、本来、許されるはずがないですよね。





ですが、晋作は切腹覚悟でやめてしまいます。
なんと、ここでも藩は晋作に対し寛容です。





何らお咎めもなく、その上、晋作が文武修行のため江戸に残りたい、と
申し込んだら、これも認めています。
長州藩の重役の一人息子だからこそ許されたわがままなのでしょうか?






いやはや長州藩とはどこまでも書生に甘いんですね。






というよりこの場合、父・小忠太が藩の重職にあり、藩としても将来は晋作に
藩の重責を担ってもらいたいのでしょうか、とにかく甘やかしてます。(笑)





晋作は明倫館で成績も良かったし、撃剣でも柳生新陰流の目録を得るなど
将来を期待されてはいたのでしょうが。






晋作には絵画の才がありました。
が、プロとしてやっていけるほどではない、と自覚しています。


晋作にはの才もありました。
明倫館では誰一人かないません。
しかし江戸で剣術修行をしてみれば自分より剣の才能豊かな人間がゴロゴロ
いることにイヤでも気づかされます。


晋作には詩文の才があります。
これこそはおそらく晋作の中で最も高度な才能でした。
しかし松陰のような思考にまとまりをつける才がやや欠けていたためその才能
を至高の域にまで持っていくことはできませんでした。






自分は何をしたらいいのか・・・晋作の煩悶はこの辺りにあったのです。






後年、彼は詩文を現実化する「革命」の中に自分の才能の発揮場所を見出す
のですが・・・この時点の我らが晋作は船もダメだー、というわけでどうやら
ふてくさっています。






江戸では久坂玄瑞らと久しぶりに会います。
西洋帆船はどうじゃった?との質問攻めにうんざりしたことでしょう。(笑)






そうこうする内にまたもや父・小忠太からの帰藩命令が届きます。
晋作、父の命令には逆らえません。





江戸藩邸の役人から帰藩命令を受けるとさすがにカッコ悪いと思ったのか、
せめて諸国遊歴しながらの帰国願いを藩邸の吏員に頼み込んでいます。






諸国の学者に会い、諸国の道場で撃剣修行をしたい、と申し込んだのでした。
もうお分かりですね。
藩邸から簡単に承知の旨、伝えられます。(笑)






晋作、この帰国の旅を「試撃行」(しげきこう)と名付け、張り切って出かけ
ます。行く先々で剣術の試合をする予定です。






1860年(万延元年)8月28日 桂小五郎や久坂玄瑞などの親しい友達に見送られて
晋作張り切って江戸を出発します。






現在の茨城県の牛久、土浦、府中、笠間と進んで行きますが、様々な事情で
なかなか撃剣の試合ができません。
笠間では加藤有隣という学者を訪ね、意気投合した模様です。






笠間を出て、現在の栃木県宇都宮に入りますがここでも剣術試合はできませんでした。






その後、日光に赴き、鹿沼に至ります。






鹿沼から壬生(みぶ)に入り「聖徳太子流」の使い手の松本五郎兵衛に試合を
申し込み、この旅で初めて試合が出来ることになります。
9月10日から12日まで壬生に滞在し、連日、松本五郎兵衛に立ち向かいますが、
ついに一本も取れず、散々に負けてしまいます。






可哀想に我らが晋作ここでもプライド傷ついてしまいました。






壬生を発った晋作は足利、碓氷峠を越えて信州に入ります。
9月17日から21日まで現在の長野県上田市の上田城下で上田藩士らと剣術試合や
談論をして過ごします。






勝ったり負けたり、もう結果なんてどうでもいいんです。
要は充実した日々が晋作には必要でした。






21日夜には真田家のある松代城下に入ります。
真田家と言えば真田幸村が有名ですが、信州真田家は幸村のお兄さんを祖とする
家です。






この真田家には師・吉田松陰の密航未遂事件に連座して蟄居中の佐久間象山
いました。
晋作も久坂玄瑞も自分達の師の師匠であった佐久間象山には一度会ってみたいと
熱望していました。





佐久間象山
102670.jpg
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/87086/m0u/






ですが象山、蟄居中ゆえ簡単には会えません。





そこで宿の主人の協力を得て、病気の診療にかこつけて象山との出会いを果たし
ます。





夜を徹して時事問題を論じ合いますが、象山いわく「救国の一字は開国にあり」
の言に晋作は不満です。





この当時の晋作は他の多くの志士気取りの若者たち同様、攘夷鎖国主義のこり 固まりでありましたから猛反発します。
晋作、象山に失望して松代を離れます。





ちなみに久坂玄瑞も2年後の文久2年12月、松代に象山を訪ね、長州藩へ招こうと
しましたが、断られています。






23日の朝、松代を発つと善光寺を見学した後、越後に向かいます。






簡単に書いていますが全部徒歩ですからね。
電車もバスもないんですからね。
雨の日もあったでしょうし、遊学と言ったって大変なことですよね。
山道をたどり、川を渡っての旅です。
晋作は師・松陰が行った旅を自分もしたかったんですね。






やがて日本海側に出ると10月上旬でした。





越前福井藩に到着した晋作はここで横井小楠(しょうなん)を訪ねます。






横井小楠は肥後熊本藩の学者でしたが政治に対する進歩的な考え方が故郷では
理解されず、2年前の1858年(安政5年)に前越前藩主・松平春嶽(しゅんがく)
招かれ越前藩の政治・財政顧問をしていました。




横井小楠
img_1.jpg
http://www.reki-c.com/syu_yoko.html





以前、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で坂本龍馬が海軍操練所の運営資金を借りる
ために越前を訪れ、松平春嶽に拝謁した時に傍にいた人物が横井小楠でしたね。
小楠が龍馬に向かって「デモクラチー」って知っとるかね?と質問し、龍馬が
見事に回答している場面でした。






小楠は言います。

政治の要諦は民を富ませることにある。それができない為政者は辞職すべきである。

民間が生産した商品を藩が買い上げ、藩が商売を行い、積極的に民を富ませる
ことが肝要である。

これは封建制度を根本から揺るがしかねない考えでした。






小楠の進歩的な考えに感激した晋作は小楠を藩校明倫館の学頭に迎えることを
考えるほど心酔します。






小楠との出会いを果たした晋作は大阪に出て、海路、帰国します。
萩に帰り着いたのは10月下旬のことでした。






藩は帰ってきた晋作を明倫館舎長に任じます。
舎長という役職は書生大将のようなもので、この藩の青年たちのあこがれの職
です。





その一月後さらに都講(とこう)といい、生徒の代表役の地位に就かしめています。
藩の晋作に対する人事は常に寛容と好意に溢れています。






晋作の生い立ちには苦労というものが全くなく、その甘やかされたままの資質を
藩は大きな心で受け入れ、将来的には藩の重要な職に就けようとしているのです。

思うに高杉家の三百年来の実績がモノを言っていると私は思うのですが、皆さん
どう思われますか?





こうしてハラハラドキドキの父・小忠太と息子・晋作の1860年は無事終了して
いきます。





明けて1861年は文久元年と年号が改まります。

いよいよ久坂玄瑞らの松下村塾系の書生たちが動きまわり始めていきます。






以下、次項で書いてまいります。

ご精読ありがとうございました。







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