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高杉晋作と吉田松陰 [高杉晋作と吉田松陰]

高杉晋作と吉田松陰




我らが晋作がいよいよ松陰と出会います。





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http://kyouongiga.com/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%...



誰が晋作を松下村塾へ誘ったのかは研究者によって説は様々です。
松陰の友人で門下生でもある中谷正亮(しょうすけ)であるとか、
いやいや久坂玄瑞が誘ったんだよ、という人も。




ま、とにかく晋作19歳の秋、1857年(安政4年)11月、ついに運命の
出会いがやってきます。




晋作は以前から藩の罪人が川向こうで何やら塾を開いており、身分
に関係なく近在の若者が集まっている噂は耳にしていました。




父・小忠太はあらかじめあの塾には近づくな、と釘を刺していました。




晋作は大人しく明倫館には通っていましたが、古い言葉の字義解釈に
終始して変わり映えのない、しかも、時事を論ずることを禁止されて
いる明倫館の授業に嫌気がさしていました。
勢い、剣術や詩歌に没頭していました。




ここからは作家・司馬遼太郎さんの説ですが・・・
ある日、晋作が川端で座っていると向こうから久坂玄瑞が歩いてきます。
晋作は立ち上がってこの幼少期からの知り合いの玄瑞と久しぶりに
立ち話になります。
ここで晋作は玄瑞から松下村塾のことを聞かされます。
二人はその足で松下村塾に向かいます。





晋作を松陰に引き合わせた玄瑞は二人に遠慮してその場を離れます。





松陰、晋作を一目見て異才あるを見抜きます。
が、おくびにも出さず、何か詩歌を一つ披露するよう求めます。
詩歌は晋作の得意とするところです。
晋作は自慢の作詩を披露します。






吉田松陰
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http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/...






松陰、これを見て晋作の性格も、今一つ勉学の遅れも、また彼の才能の
素晴らしさを見抜きます。




そしてこう言います。




「大変素晴らしい出来です」




「ですが玄瑞には及ばない」




ガーン!!




晋作、大ショックです。




玄瑞の優秀さは幼少の頃から知ってはいました。
しかし、こうまであからさまに玄瑞より劣っていると言われたことに
愕然とします。




晋作、悔しくて悔しくてたまりません。
見事に鼻っ柱を折られてしまいました。




我らが晋作、次の晩からこっそり家を抜け出しては村塾に通い出します。




松陰は晋作の出現に内心大喜びしていました。
久坂玄瑞に勝るとも劣らぬ麒麟児との出会いでした。
負けず嫌いの晋作を玄瑞と競わせることで晋作の力を引き出そうと咄嗟に
考えたのでした。




思ったとおり晋作の勉学はどんどん進み玄瑞と並んで松下村塾の双璧・龍虎
とまでいわれるまでに成長します。




松下村塾というところは単なる寺子屋ではなく今注目を浴びている白熱教室
でした。




具体的な時事問題を取り上げ、夜を徹して議論させたり、日本の将来をどう
していくべきか、等々を皆で考え論じ合っていたのです。
これこそが晋作が求めていた学問的環境でした。




やがて晋作は松陰を神のごとく尊敬していくのでした。




また、晋作は当初、身分の低い仲間とうまく調和できませんでしたがやがて
彼ら皆と打ち解けていきます。
これらが後に奇兵隊を創る下地の下地にもなっていったのではないかと
私は思うのですが、皆さんどうですか?





さて短い期間でしたが松陰から受けた薫陶を学問から行動へ移す時期が
やってきました。




1858年(安政5年)1月久坂玄瑞が江戸へ旅立ちます。
またこれに前後して他の塾生も次々と江戸や上方に向かい、攘夷運動を
開始していきます。




彼らの活躍を横目に晋作は心穏やかではありません。




罪人ながら藩政府に顔のきく松陰に頼み込んで江戸遊学の許可を取って
もらいます。




ついに晋作の江戸への旅立ちの日がやってきます。
1858年(安政5年)7月松下村塾の学友と共に萩を出発します。
同年8月20日 江戸に到着。





松陰は江戸や上方に散った塾生から情報を得ていました。
有名な「飛耳長目」(ひじちょうもく)です。
罪人の立場で、村塾から動けない松陰のために塾生らはせっせと各地の
情報を集めては松陰に書送ったのでした。
松陰、居ながらにして世間の動き、政局の動きを把握していたのです。





そんな情報の中で幕府が朝廷の勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結んで
しまったことを松陰は知ります。1858年(安政5年)6月のことでした。





激怒した松陰は「もはや幕府では日本を守ることはできない」と、この時
断言しています。





松陰は攘夷論の大御所のように考えられがちですが、単なる攘夷論者では
なく、鎖国論者でもありません。





密航を企てたことからも分かるように、敵国の実情を把握し、必要なら
積極的な開国もやむなし、と考えていました。
貿易や先進文明を取り入れ、富国強兵して諸外国に対抗するのが良策とも
考えていました。




しかし同じ開国でも幕府だけが利益を受ける開国では何の意味もありません。
不平等条約の基で日本の金銀は湯水のごとく国外に持ち出されていきます。
国力増強どころか外国の属国となる日も近いのです。





松陰の頭の中には倒幕の考えは明確には存在しませんでしたが、朝廷を中心に
優秀な人材を登用した新体制の構築が急務であると考えていました。





時は大老・井伊直弼の時代でした。
井伊は強引に開国を進め、同時に反対派の弾圧「安政の大獄」を断行して
いきます。





松陰の元に薩摩・水戸藩士らによる井伊暗殺計画の情報が伝わります。
もちろん飛耳長目です。





これを知った松陰は井伊の手足となって安政の大獄の指揮をとり、且つ又、
公家を金銀で買収して開国派に引き込むやり方をする老中・間部詮勝
(まなべあきかつ)の京都襲撃を企てます。





江戸にいる久坂玄瑞や晋作の元にも計画参加要請の書状が届きます。
この時、二人はあまりにも危険な計画に対して反対意見を師に伝えます。
こんな事をされては師の命が危ないのです。1858年12月のことでした。





ですが松陰は愛弟子中の愛弟子二人の反対に憤激して二人に絶交状
書送ります。





晋作も玄瑞もショックだったことでしょう。
でも現状ではかなり無理であるし、何より師の身が心配だったのです。





松陰という人は常識の域を超えた純粋性を持った人でした。 ひとたび自分の正論の中にのめり込むとヒステリックにもなり、歯止め が効かなくなるんです。





計画をなんと藩政府の上層部に話し、武器弾薬の準備や軍資金の調達など
依頼しています。





驚いたのは周布政之助。時の政務役で、藩政を動かしていた人です。
この周布政之助、松陰や玄瑞、晋作など松下村塾に理解のある人でした。





この計画の噂であっても幕府の耳に入れば松陰の身が危うくなるのを防ぐ
ため、自宅謹慎中の松陰を野山獄に入れてしまいます。
こうすれば政治活動を抑えられるだろうという考えですね。





失意の松陰は幕府も藩もあてにはできない、そこで野に埋もれている志士
だけで尊皇攘夷を実行すべき、とする「草莽崛起論」(そうもうくっきろん)
を唱えます。





この時期の少し前から藩論の中心を藩の重役・長井雅楽(ながいうた)の主張
する「航海遠略策」で占めるようになってきていました。





玄瑞ら松下村塾系の書生たちが中心となって攘夷運動を活発化しようと動き
回っている最中のことです。





1859年(安政6年)、安政の大獄の嵐が松陰をも襲います。





同年4月 松陰は尊皇攘夷派の大物・梅田雲浜(うんびん)との関係を疑われ、
江戸に召喚されます。





吉田松陰の江戸召喚についての詳細はこちらも参照してください。





やがて松陰は江戸伝馬町の獄に投じられます。





この当時の牢獄というのは正に地獄の一丁目で、入ったが最後、どんな
ひどい目に遭うか知れたものではありません。





晋作は師のために必死で金策に走ります。





そのおかげで松陰は酷い仕打ちを受けることもなく、執筆もできました。





松陰はそもそもの嫌疑についてはお咎めなしの流れに乗っていました。




しかしこの吟味のお白洲を絶好の機会と考えた松陰は自分の幕政に対する
意見、やってきたことの全てを吟味役にとうとうと述べていきます。





そしてあろうことか老中・間部詮勝要撃計画のことまで喋ってしまうのです。
それまで松陰をなかなかの好青年と感じていた吟味役一同は驚き、怒り、
結局は死罪を決定します。





1859年10月27日 松陰斬首。享年29歳。





これに先立つ10月中旬、晋作に突然の帰国命令がきます。
獄中の松陰と接触している息子を案じた父・小忠太が手を回して帰国命令
を出しました。





晋作という人間はまだこの時期本来の奔放さを発揮できずにいます。





晋作という人間は誰よりも殿様に対して忠義の心を持っていました。
これは高杉家の伝統だろうと思われます。





後年、藩を焦土として攘夷を決行するもやむなし、と考える一方で、
その際には藩主父子を引っ担いで朝鮮へ亡命することまで考えていたくらい
です。それほどに藩主には強い忠義心を持っていたのです。




と同時に、両親に対する「考」の心も並大抵ではありませんでした。
父が「戻れ」、と言えば父の気持ちを考え、素直に従うのです。
荒れ狂う奔馬が首を垂れ、すごすごと帰るのです。





攘夷運動と父との狭間で晋作は人知れず悩みます。
仲間からは口先だけの奴だ、と陰口も叩かれます。
しかし生まれ育った環境が高杉家なのです。





それがわかっている松陰は伝馬町の牢獄から次のような手紙を晋作に送って
います。




一つは「男子たるもの、どのように死すべきか」という、かねてからの
晋作の問に答えたもので、
「・・・死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込み
あらば、いつまでも生くべし・・・」と。





もう一つは今後の晋作の進路について書いています。
「結婚して官に就き、ひたすら父母のお心を安心させなさい。君側に仕え、
その信頼を得た後に正義正論を主張しなさい。そうすると一旦は失脚する
ことになるだろう。そして人に会わず、学を修め、無私無欲の人になれば
十年の後、必ず大忠を立てる日が来る」





処刑を前に松陰は門下生に宛てた「留魂録」という遺書を遺しています。
自分の志を門下生達に継いで欲しいと願ったのでした。





その冒頭に有名な一首が添えられています。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂」






晋作が師の死を知ったのは帰国後、井上まさとの婚約が成った後でした。

晋作、松下村塾に駆け行き、一晩村塾で泣き明かしたのでした。






師の顔が、師の教えが走馬灯のようによみがえります。

「世の中に認められるために学問をするべきではありません」
「人間として恥ずかしくない生き方をするために勉強しているんですよ」
「世の中に風穴を開けるには覚悟が必要です」
「周りから何と言われようとも正しいと信じた道を歩きましょう。
 正義と信じた道を突き進むには“狂”たらざるを得ません」
「諸君、狂いたまえ」

晋作、号泣の一夜でした。





考えてみれば松陰との2年ばかりの短い交流でしたね。
晋作、師の志を継いで行く決心をします。






晋作のその後次項に続きます。




















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